小さな学級から大きな社会へ ~ 三間シュンの教育実践の源 -2ページ目
どれくらい学校が子どもにとって居心地のよい学校であるかを見極めるには、ある子どもの立場に立ってみるといい。


それは、
困っている子どもへの対応やとらえ方である。


とかく学校は、お国の定めたカリキュラムや、管理職のまなざし、保護者からの視線に沿った教育をしようとするがあまり、
困っている子どもに対して、
学校側のレールに乗せるための対応をしてしまう。


困っている子どもの立場に立って、教育を見つめ直したり、社会をとらえ直したり、学校にしかないような価値や枠組を広げたりしようとしているか。


それは一見、子どもの姿に戸惑い、慌てふためき、また、ありのままの姿を見せることを許すような、甘やかした対応に見えるかもしれない。



しかし、本来、指導とは、良好な人間関係の上に立って行うものである。



子どもの行動に慌てふためいたり、戸惑ったりしてしまう行為は、むしろ、その子の姿から学ぼう・理解しようとするものではないか。


それは、決して、全ての子どもを閉ざされた学校的価値観の中に閉じ込めることにはつながらない。


社会的にも立場の弱い子どもの姿から、生きやすい社会を創造しようとする、教師の懸命な姿である。




教師自身のそんなひたむきな姿を見出だしてもらいながら、共に生きやすい社会をつくるためのつながりを広げていきたい。
管理職という言葉が大嫌いだ。

上の人間はなぜ、校長のおかしさを追及できないのか。
上の人間はなぜ、校長の言った通りのことばかりするのか。

子どものことを第一で考えると、そういうおかしさばかりが目につく。


結局は排他的利己主義なんだよ。特に排他的なのは弱者に対して。

子どもはその最たるもの。
枠からはみ出てしまう子どものサインやメッセージこそ、小さな学級・学校・社会を変える、大きなうねりをつくり出すヒントだと信じたい。
「トラブルが起きたと周りが認識しておらず、一人で悩んで泣いたりしている場合はどうするか」

たとえば、鬼ごっこで、新しいルールを加えたいが、みんなに伝えることができずに立ち往生し、涙を流している場合を想定する。


相互理解の視点を考えると、今は周りの誰も困っている(泣いている)子のことに気づいていない状況。

この状況を開いていくには、
・教師の力でみんなを呼び、加えたいルールを伝えさせる。
→このやり方で、困っている子の気が晴れるなら、確かに有効な方法と言える。
しかし、この方法を続けると、反対に、困ったら教師を頼ればよいと安易に考え、すぐにヘルプを大人に出す子どもも育ってしまわないか。
確かに、周りに困っている状況の子を理解できる友達がいない場合は、教師が一番の理解者になることは大切だと思う。
だが、一番追求していきたい集団のあり方は、相互理解、加えて相互承認ができる子どもたちである。
つまり、大人に甘えてしまう困っている子のことも受け止め、手を差しのべられる集団の姿である。
そう考えると、次の方法が浮かんでこないだろうか。


・困っている状況に手を差しのべられる子を、教師が探す。
→つまり、困っている状況に気づき、打破できるリーダーを育てるという視点である。
そんな子を見つけ始めると、教師は既に、困っている状況を打破するために子どもたちと悩める相手になる。
教師が問題に一人であたっていない点に、特に注目してほしい。


集団を育てる視点は、常に集団のあるべき姿(理想となる考え)を理解できる者を増やしていく活動とセットである。

トラブルを解決するばかりが、トラブル指導の目的ではない。集団を育てるために、トラブルをどう生かすか。

その視点で子どもたちに関わり始めたとき、
初めて、トラブルの真ん中に立ち右往左往する状況から一歩抜け出して、子どもたちと手を取り、よりよい集団を育てる一歩を踏み出せるのかもしれない。