義母は今年88歳「米寿」を迎える。

独り暮らしで80歳を越えてからは身体の面で不安があり、施設に入ったり出たりを繰り返している。

気持ちはお元気でしっかりしていたけれど、先の施設で脳梗塞を発症し要介護度5になってしまった。今は介護をメインにみてくれる病院にお世話になっている。



コミュニケーションもとれず、食事も流動食(胃ろうではない)で、コロナで面会も叶わず…それでも、義母にお迎えが来ないのは、ひとえに「息子(ダンナ)への愛情」に思えて仕方がない。

ダンナに「自分(ダンナ自身)が変わる最後のチャンス」を与えてくれているんじゃないか…と私は思っている。


ダンナは50歳になる今年まで見事に変わらなかった。

多くの人は就職、結婚、出産…人生の節目節目で、望むと望まざるとにかかわらず、新たな役割を担ううちに変わっていくものだけど、そういう意味でダンナは私から見て何も変わらなかった。


結婚しても、私も正社員だったのに家事はなにも負担してくれなかったし、

ワイ氏が生まれても自分に子どもを合わせていた。

子どもがやりたいことや行きたいところに付き合うのではなく、自分のやりたいこと行きたいところに子どもを付き合わせていた。


それを許してしまった私もいけなかった…とものすごく後悔している。

もちろん、そのことで何度も言い争いはしたけれど、あまりの不毛さにいつしかあきらめた。


そんなダンナに「変われる最後のチャンス」を、義母が最後の最後に与えてくれている…と思えて仕方がないのだ。


1人では生きることさえままならなくなった母親に寄り添い、負担にならないくらいには手間も時間もさいてあげて、今日までの感謝を伝えてあげたら。

そうしたら、そんな風に変わったダンナを見届けたら、やわらかな優しい気持ちで、義父が義母を迎えにきてくれる気がして仕方ないのだ。


ダンナは義母にまつわる何もかもを、不満たらたらにイヤイヤこなして、自分がやりたくないからケアマネさんや施設の人になんやかやと理由をつけて押しつけている。

でも絶対に私には回してこない。

それは私に負担をかけないためではなく、私に親のお金をはじめとするなんやかやを把握されるのがイヤだから。

良くも悪くも義母が遺したものはすべて自分の自由にするつもりだから…だと思っている(笑)


気づいてないフリをしているけど。

そもそもそんなこと、どうでもいいけど(笑)


義母の最後の愛情…義母本人も気づいてないかもしれないけれど…に気づいてしまったら、もう母息子の間にしょせん他人の私は割り込んだりなんてできないなと思う。


義父が病気で亡くなった時。

人はもう逝くことでしか遺せなくなった時にお迎えがくるのだと思った。「死」そのものが、最後の置きみやげ、愛情なのだと。


もうあきらめているけれど。

義母の愛情が報われればいい、間に合ってくれればいい…とも願っている。