コメント全部読みました!!
 
 
 
 
「自分と向き合う」ことが「自分と対話をする」こと。あるように、その部分から、「向き合う」=「対話する」に変換されて「母親と向き合う」=「母親と対話する」みたいになっていました(*´-`

 
 
なるほどなーーー。
 
 
 
 
 
 
 
おっはよーございまーす!
これって私的見解だと、単なる社会的すり込みなのでは?と。
テレビやら本やら既存のネット記事やらの。
どっかで仕入れた価値観がふんわり社会性を帯びて浮遊してる感じ。
当然、考える事から遠ざかった脳は手短で慣れた情報を採用するので。
ナリ心理学の情報はまだ新しいから既存の情報とのすり替えには時間と脳体力を多少酷使するのかも。
私はそうでした。
非ダイアモンドは基本的に疲れてる人が多いから。。。
 

 
非ダイヤモンドさんの、誤解、誤読系は、もうほんとこれで全部理解できる。笑。
 
 
 
 
 
 
 
この投稿を読むまで一般的な意味として

「向き合う」っていうのは
「会って話し合う」ことだと思い込んでました。

私の頭の辞書ではそうなってました(笑

母の名前はマサコなんですけど、「マサコ」と直接話し合うことが母親と向き合うことだと感じてました。

そうではなくて、自分の「母親」という存在と向き合えばいいんだ!
と思えてきました。

母はもう他界してるし

実際に会わなくても、母親との体験や感情をノートに書き出して、どうやって自尊心が低くなっていったのかを探りだせばいいんですね。

もっと深堀りして書いてみます(^^)
 

 
 
「実物」の母
「存在」の母ってのを、分けて考える必要があったんだな。
 
 
 
 
 
 
 
母親「と」向き合う だから、物理的に向かい合ってるイメージが浮かんで、向かい合うからにはなんか喋るよな~…的な発想になるのかな?
母親「に」向き合う だと、なんかちょっとナリくんの方向性に近づかないかしら…変わらないかな笑
 

 
変わらないと思うけど、発想は素晴らしすぎる。
 
 
 
 
 
 
 
母親と向き合うって言葉だと、やはり実際に対面して対話するものだと感じるかなあ。
むしろ、一回はタイマンしないとズルしてるって感覚が出る。

もし必ずしも対話じゃないというならば、「自分と母との関係性」や「母親の存在が自分に及ぼしている影響」に対して考えてみることが、向き合うってこと?

母を1人の中年女性として理解しようとせずに、自分の儚い希望を捨ててないから、

子どもの本音で話せば母親が自分の気持ちを分かってくれるかも、という「理想の母親像」を自分の母親に押し付けようとしてる。

自分が母親に理想の子ども像の役割をしてやってきたんだから、母親も自分のリクエストに応えてくれて当たり前だよねと思ってる。
 

 
 
「実物の母」
 
「存在の母」つまり「脳内の母」「想像の母」「概念の母」「イメージの母」
 
ここを分けて考えることに
ものすごい意味がありそうだ。
 
 
 
 
 
 
多分、日本の教育というか風潮?かなと思いました。
日本では幼稚園、小学校から「みんな仲良く」とか「話せばわかる」って教育されるでしょ。
母親自体もそう教育されてるから、それこそ物心つくあたり、幼稚園入園まえから自分の子供にもそう言い聞かせてるだろうし。
もうずっと「話して理解して仲良くする」=「尊い」みたいな。
ドラマも映画もそんな感じのが多くてウンザリするくらいに。

理解する=仲良くする
が今までの世間の多数な考え方で
理解する=相手を尊重するけど仲良くしなくていい
は最近やっと認知されてきた考え方って感じます。でもまだ少数派?

私はナリくんの「母親のことを理解することは必要だけど、母親とは仲良くしなくていいです」に凄く救われました。

ナリくんの「母親は変わらないよ」や「母親の謝罪は似非謝罪」を母親と話してもう何度も体験しました。
話すこと自体は上記のことを証明、理解できたので良かったのですが。

けどもう小さい頃からのすり込みで
ふとした時に「母親と仲良くして上手くやっていった方が良いんじゃ…」となったりして。
(世間の風潮にさらされるとまだ揺らぐ)

ハッ!Σ(゚д゚lll)
仲良くしなくて良いんだった!
危ねー、危ねー(;´Д`A
ってなります。

プププ、まだダイヤモンドになりきれていないな(´・∀・`)って感じです。
 

 
なるほど、母親とは仲良くするべきというのは邪魔するか、、、
 
 
 
 
 
 
母親に本音をぶつけました!というやりとりを紹介されているブログを読んで、それがあまりにも衝撃的だったから印象に残っているのだと思います。
母親ダイヤモンドだと思っておらず、母親と本音で話すことに嫌なイメージしかないのに、その嫌なことやらなきゃいけないの⁉︎って、そればかり印象に残ってしまいました。
 

 
これもなるほど、、強烈だから脳内にこびりつくのね。
 
 
 
 
 
 
 
母に限らず、夫と向き合うとか自分と向き合うとかも同じで、やっぱり会話すると思います。他の心理系でもそうだし。まぁ、それで失敗したクチですけど。それが失敗だとナリ心理学で納得しました。確かに話が通じる相手ではなかった。○○と向き合うは一般的に相手が人なら話し合うになると思います。
 

 
話が通じる相手だと思ったら、会話で解決できると思ってしまうか。
 
いくら、ナリ心理学が「あなたの母親はゴミですよ」って言っても。
 
 
子「お寿司とラーメンどっちが好き?」
母「お寿司かな」
 
くらいの会話ができたら、うちの母は会話ができる人間だって思うわな。
 
 
 
 
子「お寿司とラーメンどっちが好き?」
母「お前は洗脳されてる!脳内に電子チップを埋められて監視されてるんだ!ぎゃああああああ!!!このお札を家中に貼らないと!全て盗聴されるぞ!!ほら!!テレビの中のあいつも!!!今私を見たぞ!!!監視されてる!!!あああああ!!」
 
とかやられたら結構諦めつくけど。笑
 
 
 
 
 
 
 
 
「○○と向き合う」
という行動を取ろう!と思った時、その行動というアウトプットとして

「他の何かに対して物理的に関わる」

という選択肢しか持てないからかな?と思いました。
そういう自分以外のものを巻き込んでの行動の方が、自他共に

前進するべく努力した!

と評価出来そうですしね。(他人軸)

「自分で自分の感情を分析する」

という事も、立派な行動のひとつだと思うのですが、自分ひとりで考える事をアウトプットとして捉えられないからかな~?と思いました!
 

 
なるほどね、目に見える形の「私はやった」が欲しいのか。
 
 
 
 
 
 
 
私の場合、母が人と会話できないタイプなので、最初から話し合うだけ無駄だと思っていました。だから母と向き合う=母を理解するがすんなり頭に入った気がします。
母親がある程度人と会話できる人だと、母と話し合ってお互い納得する=母と向き合うと思い込んでいる人が多いのではないかと思います。
言いたいこと言うのも大事だと思うけど、それだけだと向き合うことにはならないってことですよね。
 

 
 
 
脳内に電子チップを埋められて監視されてるんだ!ぎゃああああああ!!!
 
 
ちなみに真面目な話として、この場合は、お母さんはきっと「統合失調症」だと思われます。
 
「統合失調症」になったのはお母さんの責任じゃないので、ぜひ、病院に連れて言ってあげて欲しいです。嫌がるとは思いますが、嫌がるのも想定内です。
 
 
 

※文字数オーバーにつき、続く