10年。
あの日、車で出かけていました。
揺れが収まってから、すぐに鎌倉に戻りました。
途中の信号は消え、渋滞。
子供達とも連絡が取れず、心配しながら18時半ごろ、ようやく自宅に。
子供達と、なんとか合流して、避難所となっている小学校体育館に。
行きながら、観光客の方が、「公衆電話はありませんでしょうか?」。
小学校に行くと、停電していて使えない。
交番横の公衆電話は、電気がついていました。
ご家族に「連絡できます」と、喜んでいただきました。
避難所には、2人の方がいました。
職員と対応を話して、一度帰宅。
テレビに映し出される光景は、とても信じられない。
翌日から、何かできないか模索。
停電が続いていましたので、限られてきます。
そして、募金をすることに。
箱を用意して、旗を借りて募金。
大船駅東口で、たった1人で始めました。
小学生の女の子が、財布を広げて募金をしてくれた時は、涙が出てきました。
「ありがとうございます!必ず、届けます!」。
それをみていた20歳くらいの男性4〜5人が、「小銭でもいいですか」と、小銭全て入れてくれました。
「もちろんです!ありがとうございます!」。
鎌倉野球協会学童部が、翌週に春季大会が行われる予定でしたので、募金と野球用具の寄付をお願いしました。
多くの募金と野球用具が集まり、被災地に届ける準備。
2週間後に、岩手県宮古市に向かいました。
現地の状況を、岩手県の知人の皆さんに確認して、「ガソリンはなかなか手に入らないです」と聞きましたが、細かく計画して行ける、としました。
途中、ガソリンも20リットルしか販売されず、並びましたが、なんとか着きました。
被災地は、想像を絶する世界。
言葉もありませんでした。
宮古市役所に行き、会計課に募金を届けますと、「市長と会ってください」。
非常時ですので、固辞しましたが、「市長もぜひと言っています」。
市長室でお目にかかった宮古市長から、様々お話を伺いました。
市長室からの光景は、津波が市役所を飲み込む映像そのままでした。
「中沢さん、情報がないんです」。
「どんな方法でも物資を届けたい。でも、情報があまりにも無いのです」。
「中沢さん、戻ったら、被災地の現状を伝えてください」。
宮古市長と、「必ず伝えます」と約束、しました。
そして、10年は被災地に行き続ける、と決めました。
その後、毎月被災地に。
大学の先輩が、被災地支援に行っていましたので、状況を様々教えていただきました。
今でも、被災地に行っています。
昨年は、東日本大震災翌年に亡くなった妹に会いに、風の電話に。
あの日から、10年。
あと5年、10年行き続けたいと思っています。
被災地の、復興を見ていきたいと思います。
今、何ができるわけでは無いのですが、伝え続けたいと思います。
あの日、宮古市長と約束したことを。

東日本大震災で犠牲となられた皆さんの、ご冥福をお祈りします。
そして、「忘れない」。