私の最初の仕事 | 中屋敷左官工業(株)

私の最初の仕事

私が会社を引き継いで、今年で15年目に入りますが、継いだときに一番最初にしたこと。


それは・・・




過去の決算書を見たことでした。




決算書というのは、会社の健康診断表のようなものだな、と思いました。


当時たしか、昭和63年くらいから平成6年までのものを見たと記憶してます。


はじめて見た決算書を見たときの思いは・・・。






「このままではダメだ。これからの時代きっとやっていけない」 でした。






そこで私が行ったこと。




当時は事務の女性が二人、働いていました。


お二人とも長い間会社を支えてきてくれた方でした。


そのお二人に、会計事務所の先生に次の働き先を見つけていただいて、


「経理処理はすべて私ひとりでいこうと考えています。こちらの会社に移っていただきたいのです。」


とお二人に伝え、そして実行しました。


平成7年、当時はまだ”リストラ”という言葉も世の中では使われていない時でした。


今考えても厳しい決断だったと思います。




この私の行動は、瞬く間に巷に広がりました。


そして、外部から聞こえてくる言葉は、「もう中屋敷はダメだ」、「あんないきなり東京から来た若造だもん無理だよ。」等々。


今でも忘れられません。父の一周忌を終えた親族での会食の席でした。


ある親戚の方からも、「剛、人を切るような経営をするようでは、先が無いぞ」と言われました。




でも、誰に何を言われても私の心は何一つ動じませんでした。




さらに社内の一般管理費をすべて洗いだし改善し、一年で大幅に圧縮することができました。




今思うと、私は”会社を継ぐ”ということに決断していたのだと思います。


まさに、決めて断ち切っていたのだと思います。


自分の好きだった仕事を辞め、今の仕事に完全に賭けていたということ。


そこには、もしだめだったら戻れば・・・なんて選択は万に一つもありませんでした。


そこが大事だったんだなと思います。




私は建築科卒業です。当時、会計処理なんて全く知りませんでした。


振替伝票?複式簿記???? 


それなのに、経理の女性にやめてくださいというのですから。


怖いもの知らずというか、若いというのはパワーがありますね。


本屋さんに行って、会計処理の本を買って読みあさりました。


当時まだ高価だったパソコンを導入し、”経理をできない状態”からスタートしました。


でも、人間本気でやればなんとかなるものです。


その年の3月には自分で決算書を打ち出していました。






そうです。






人間、”やるんだ!”と心から決めれば何とかなるもんです。




私は14年前の自分に、「よくやったね。」と言ってあげられます。


今の私が10年後の自分に、「よくやったね。」と言ってもらえるように、


この厳しい時代を頑張って生きていきます。