【 チェルノブイリを思い出す。】



1986年

ウクライナ・チェルノブイリ原子力発電所で起きたあの事故を思い出す。


私はちょうどその時、フランス東北地方の主要都市・ストラスブールから南に87キロ程下ったコルマール市に留学中であった。


ライン川の辺りに位置するこの街は、白ワインの産地で有名な街だった。



私が当時住んでいた田舎の村「キンツハイム」と言う村から約6キロ程離れた
「カイザースベルグ」と言う街は、アルベルト・シュヴァイツァー博士生誕の地であり、アルフォンス・ドーデ作=「最後の授業」の舞台になった事でも有名な地域だ。




戦争時代のアルザス地方、そこには沢山のレジスタンス達が、反ナチスドイツ活動に従事しており、特に私が住んでいた学校とその寮は、レジスタンスの修道院の跡を学校に活用したもので、寮は元々馬小屋だった。



3年間も学生時代を過ごした事を思うと、色々な思い出が頭の中を過る。



その中でも、忘れられない1つの思い出が、「チェルノブイリ原発事故」だ。


牛乳は当然発売禁止になり、ライン川が汚染されていると言われ、その水を飲み、その水の恩恵のもとで育った動植物は、食する事をすすめられなかった事を思い出す。



雨の降る日は、外での体育の授業や遊びは控えさせられ、表に出る事を禁じられていた。


あの時の事を思い出すと、今回の日本国内の対応とは、差があるなと正直思っている。






【 「安全です。」「安心です。」としか言わない政府。】




余計に不安になるのも正直なところだろう。


国民の決して一部でない人達が、同じ気持ちを持っていると思う。




官房長官の発言を聞いていると


「直ちに健康に影響を及ぼすものではない」と発言している。



1時間ではなく、2時間、3時間・・・24時間の場合はどうなのか?


降雨は大丈夫なのか?


水道水は?



重ねれば、当然摂取の量も増加するだろう。



「危険ではない」「安心だ」「大丈夫だ」も、科学的根拠に基づく話なのも理解は出来るが、同時にその話を応用して聞くと、考えると、官房長官からの発言が、非常に疑問に思えて来る時の方が多い様に思う。





【 「危ない」「危険回避せよ」と言えないルールでもあるのか? 】




原発から一定の距離からは退避する様に国民に対して伝達している事は分かる。

しかし同時に、「屋内退避」とは一体何を意味しているのか?



言いたい事は分かる。

換気扇は止めて、外出は控える。



しかし、それで良いのか?



本来であれば、もっと遠くに退避させるべきなのではないだろうか。



「危険を察知し、回避する能力」が、現代の人間からは何となく乏しくなって来ているのかも知れない。



ストレートに、日本の安全神話が崩れた現在、今まで起こりえなかった事が起こったのだから、それに見合ったそれ以上の対応が、即応能力が必要なのではないだろうか。



当然、混乱を起こす必要は全くないが、政府は正しい情報を、正確に、正直に、国民に伝えるべきなのではないだろうか。



国民もそれを受けて、本来人間が本能的に持ち得る感覚を大事に、自分達がどのように行動するべきなのかを、考え、具体的行動に移して行くのだろう。



国民との間にリスク情報を共有していないと思われる事ほど、国民が疑心暗鬼になり、本能的に怖いと思う事は無い。



段々と、例え本当の事を発表していても、信じる者は、徐々に少なくなってくるのだろうと思う。




大阪にいると最近、東北や関東から急に来阪して来ている方々の姿を頻繁に観る様になった。



大阪では現在、宿泊施設も大体満室だ。





人間の本来の感覚。


誠実な心の眼で、判断する以外無い。



危険回避する為の潜在能力を研ぎ澄ませるべき時だ。








真実を。







つづく