こんにちは。
45,000人が学んだ資格取得認定団体を北海道の小さなサロンから
創り上げた私の起業ストーリーを公開して行きます。

オンライン化が加速する今、再び習い事がブームとなりつつあります。

習い事は、趣味としてはもちろん、資格取得、知識、技術やスキルを習得して

仕事に活かすものまで幅広くあります。
そして、習い事は同じ価値観を共有できる仲間との出会いや、オンライン化で
人と出会う機会が減る中、今まで出会えなかった色々な人との出会いの場を

教室やオンラインで提供することで、お客様の人生を豊かにする素敵な仕事です。

まだ、インターネットも普及していない時代に、私がどうやって起業して、

カラーセラピーという習い事を作り出し、世の中に広め、仕事にして行ったのかを

綴って行きます。

もくじはこちら
 

第1章 私がカラーサロンをはじめた理由

 

自分で仕事がしたい。
できれば好きなことを仕事にしたいと思う起業女子は世の中にたくさんいますが
何がキッカケで、そのように思うようになったのでしょうか?
もっとお給料がっ欲しいから?自由な時間が欲しいから??
それとも、今の仕事に何か物足りなさを感じているからでしょうか?
私の起業ストーリーと、TCカラーセラピーが誕生するまでを振り返ってみたいと思います。

 

①良い子を卒業した私が選んだ、私らしく生きる方法

私がカラーと出会ったのは、2つ目の会社に転職した26才の時でした。
その会社は、全国組織の大手スクール。
当時は、デザイナーやコピーライターなど、カタカナの職業がもてはやされ、
私が働いていたスクールでは、デザイン系の講座を中心に、
全国60校以上の拠点のある大手スクールでした。

私がそのスクールに転職をしたのは、カタカナ職業に憧れはあるものの
何がしたいのか、何が自分に向いているのか分からず悩んでいた時に
地下鉄の大きなポスターで見た「4月生募集」の広告がきっかけでした。

そのスクールに興味がある。
しかし、受講料が高く、失敗は許されない。
もし学んでみて、自分に合わなかったらお金も時間ももったいない・・・

そんな言葉が心の中で渦巻き、なかなか前に進めず
色々な人の話だけ聞いて、頭でっかちで何も行動することもないまま、
私は逃げるように結婚の道を選びました。

  • そろそろ適齢期で、お年頃だから
  • 結婚は、みんなするものだから
  • お付き合いしたのだから
  • このままOLを続けたくないから
  • 親の近くに住めるし、親も喜ぶだろうから

それが、長女気質で、良い子を演じてきた私の選択でした。
正直言って、あの頃の私は、自立できておらず、
親や世間の常識に囚われて、自分の人生を心底生きていませんでした。

結婚が決まった時は、とても嬉しく、私は結婚式の準備に
それはそれは、一生懸命に取り組み、充実した日々を送っていました。
しかし、結婚式が終わると、虚無感に襲われ、喜びよりも、
後悔に苦しむ日々がやって来ました。

そこを何とか乗り越えようと、勤めていた会社を辞めて、
私は「やりたいこと探し」を始めます。

しかし、そんな私とは対照的に、平凡でいいから、
暖かい家庭を作ることを望んでいた夫とは、
いつの間にか歯車が合わなくなり、喧嘩ばかり。
結局、未熟だった私は、離婚を選び、人生をやり直そうと決めました。

あのころ、私が満たしたかったのは、帰属欲求ではなく、承認欲求でした。
今なら、はっきりとそれが分かりますが、
当時、何不自由なく、恵まれていた私に、一体、何に不満があるのか
何が満たされなくて、こんなことになったのかは、両親も、友達も、
そして私自身も、全く分かっていませんでした。

きっと、社会や世間一般的が決めた「幸せ」に
自分を無理矢理押し込めようとしていたのでしょう。
そして、私にとって離婚は、「良い子」からの卒業でもありました。

離婚後、再就職の時、憧れていたスクールの求人広告を見つけます。
募集職種は、「企画営業」と書かれていました。
以前勤めていた会社で、希望しても叶わなかった企画と営業。
しかも、ずっと憧れのデザイン系のスクールで仕事ができるなんて!
私はすぐに履歴書を書き、面接に行きました。
幸いなことに、面接では、「明日から来て下さい」と、
その場で内定をもらい、そのスクールに再就職することができました。

数日間の研修が終わって、私が担当になった講座が、
「カラーコーディネーター養成講座」でした。
そしてそれが、運命的な出会いになるとは、その時、知る由もありませんでした。

 

②カラーの仕事は需要が無いのか?

デザイン系スクールに転職し、カラーコーディネーター講座の
担当者になって1年が経過したころ、私は卒業間際の受講生から
私の運命を変える一言を言われたのでした。

 
 
 
それは 「高いお金を払ったのに、カラーを学んでも仕事にならない」
という半ば、クレームとも取れる一言でした。

私が講座の説明をして入学された受講生でしたので、
その一言で、私はその受講生に対して申し訳ない気持ちと共に、
この仕事を続けて行くことに疑問を持つようになりました。

私が働いていたデザイン系のスクールでは、当時、
カラーコーディネーターの他に、インテリアコーディネーターや
フラワーデザイナー、パースデザイナーなどの講座がありました。

カラーコーディネーター以外の講座は、
数は少ないですが、企業からの求人もあり、卒業生たちが
実際に就職して、その後活躍し、希望の仕事に就けたという
喜びの声なども時々耳にしていました。

また、一度就職して、経験を積んで、独立開業する卒業生もいました。

ところが、当時は、カラーを学んでも、就職はおろか、
独立開業できる人は、全国的に見ても、ほとんどいない状況でした。

講座説明会では、
「アメリカやヨーロッパではカラーで開業して成功している人がたくさんいる」
ということを伝えていました。

確かに、セブンイレブンのロゴの色彩提案をしたアメリカの
フェイバー・ビレンなどは、カラーコンサルタントとして成功した一人ではありますが
日本では、まだまだカラーだけで仕事をしている人は、ほんの一握り。

だからこそ、自分が第一人者になろう!
と、なかなかそこまで、覚悟を決めて、進もうとする方はとても少ないのです。

嘘から出た誠ではないけれど、私は、いつしか
「カラーだけで仕事ができるということを自ら証明して、道を作りたい」
と周囲に言うようになりました。

なぜ、そんな使命感が生まれたのかと言うと、
自分の仕事を愛していたからです。
だから、需要が無いなら作ればいい。
そのくらいの気持ちを持っていました。

私が転職して、カラーを担当したのは、1991年の春。
色彩検定が始まったのが1990年11月。
当時はまだ、カラーを教える講師さえも居ない状況でした。

それでも、カラーコーディネーターの講座を作り、
生徒を募集しなければなりませんでしたので、一番苦戦したのが講師探しでした。
初めのころは、講座を4クールに分けて、
インテリア、服飾、グラフィック、商品など、各分野に詳しい先生方を
講師として招き、先生方にカラーについて学んでいただきながら、
なんとか講座を運営していました。

その後、札幌にも色彩を長年研究しているという大学教授と出会い、
大学の仕事のお休みの土曜日だけ、1年間講座を担当していただけることになりました。

こうして、講座そのものを育て、授業の評判も良く、
受講生たちの満足度も高い良い講座であると信じていた私でしたので

「高いお金を払ったのに、カラーを学んでも仕事にならない」

という受講生の一言に、とてもがっかりしてしまい、落ち込みました。

こんなに良い講座なのに・・・
こんなに身近で生活にも仕事にも役立つことがいっぱいなのに・・・
こんなに講座の時、みんなの目が輝いて心ときめいていたのに・・・

愛するものが、世の中に理解してもらえない悲しさ。

悲しいままにして置きたくない!

そんな思いから、やがて私はデザイン系スクールを退職し、
自分でカラーサロンを開くことになって行ったのでした。

もちろん、お金も人脈も知名度もない私が、インターネットもない時代に、
簡単にうまく行くはずもありません。
数々の失敗もたくさん経験して、今があります。

一時は、サロンも住んでるマンションも家賃が払えなくなり
追い出されて、ホームレスになったこともありますが、
色々な工夫をして、自己資金ゼロ円で再スタートして、現在に至っています。

そして、2009年に、TCカラーセラピーシステムをリニューアルして
全国に発信するようになり、6年で門下生が、28000人になりました。

なぜ、これほど広がって行ったのか?
どうすれば、カラーサロンを開いて仕事ができるのか?
カラーには、どんな魅力があるのか?
カラーを学ぶとどうなるのか?

これから、じっくりと書き綴って行きたいと思います。



つづく