a view from the room 新章ー#6 龍涎香(アンバーグリス) | dramatique

a view from the room 新章ー#6 龍涎香(アンバーグリス)

もしかしたら、お気づきの方もおられるかもしれませんが、厳密に言うと#奇数と#偶数の主人公は同一人物ではありません。それはある現象を想起させますが、後ほど明らかになるまでは秘密…にしておきます。

 

 

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#6 龍涎香(アンバーグリス) 

学名:Physeter macrocephalus L..(P.catodon)

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 ふと気がつくと、窓の外はすっかり薄闇に包まれていた。書物机に向かって物思いに耽る間に、どうやら思いのほか長い時間を過ごしてしまったらしい。


 私は微妙に翳った部屋の中で、引き出しを漁っている最中だった。錆びたブローチや皺くちゃになったチケットの半券、ほとんど使えないような文房具の数々にまみれて、様々なガラクタ類が発掘されていく。その時々で、それらにまつわる記憶を辿ったりするうちに、探し物が何であったのか、いつしか思い出せなくなっていた。

 

 やがて、私の手は奇妙な物体を探し当て、その姿に見入ってしまう。

 

 かつて博物館めいた雑貨店で手に入れた古い羊皮紙や標本の類に混じって、龍涎香(アンバーグリス)の見本が出て来たのだ。

 日頃、薬草ばかりに親しんでいて、たまに動物性の素材に接すると、驚くほど新鮮に感じたりする。龍涎香は抹香鯨の病的な結石塊らしい。消化し切れなかった蛸や烏賊の嘴などが腸内で凝縮し、体外に排出されて海上や浜辺に打ち上げられたり、捕獲時に解体された際に副産物として採取されてきたりしたという。

 その特異な形や色彩から、中国の人々は龍の涎=龍涎香と呼ぶようになったと伝えられている。

 

 アンバーグリスという名は、元々<琥珀(アンバー)>に似ているところから、<灰色の琥珀>と区別して呼ぶようになったらしい。

 その姿形からは想像できないほど稀少で幻惑的な香りは、なかなか入手できないこともあり、宗教儀式や香薬として珍重されてきた。龍涎香も琥珀も似て異なるものでありながら、焚き物として使われる類似点がある…不思議な関係だ。

 

 映画『ハンニバル』の中で、レクター博士がクラリスへ送った手紙から、サンタ・マリア・ノヴェッラのハンドクリームに配合された龍涎香の香りが特定され、博士がフィレンツェに潜伏していることが発覚するシーンがある。美食家のレクター博士、当然ながら嗅覚にも特別のこだわりが見受けられて当然だろう。

 

 龍涎香の見本は、確か香料会社から取り寄せたものだ。絵を描く時、私はよく香りを漂わせながら制作する癖があるのだった。得体の知れない、神秘的な芳香を放つ素材は、制作者にとって魅惑的この上ない。私は龍涎香の欠片が入った小さな壜のフタを開け、微かに漂うエキゾチックな香りを嗅ぎ取ろうとする。そして、薄闇と龍涎香はとてもよく似合う。

 

 なぜ、病んだ箇所や秘めたる部位に宿した物質の香りが芳しいのか……深遠な謎だ。でも、きっとそうなのだ。だからこそ人々は、そこへ立ち入らぬよう厳しく律してきたのであろう。そうでないと、普通の人々など簡単にとり憑かれ、堕落し、破滅してしまうだろうから。

 

 翌日、私は銀座の月光荘で画材を買い足すついでに、サンタ・マリア・ノヴェッラの店舗に立ち寄った。うっかりすると通り過ぎてしまいそうなほどひっそりとした佇まいの店は、頑なに処方を守ってきた修道会の面影を偲ばせる雰囲気が今も漂っている。

 

 店内へ一歩足を踏み入れると、狭いながらも重厚な陳列棚に囲まれた静謐な空間では、所望する製品を店員に伝えると鍵を開けて取り出し、価格を伝えてくれるという厳格な空気に包まれている。

    ここのポプリを置いた車でドライブすると、まるで森の中を走っているような気分になると知人が話していたのを思い出し、店員に告げると、幾分か和やかな空気が流れた。


    実は、普通にフラッと店舗に寄り道をしたところで、龍涎香のハンドクリームなど売ってはいない。なぜなら、あれはレクター博士のためのオリジナルブレンドだからだ。

 

 オーデコロンなんかも、いいかもしれないな。私は爽やかなコロンを身に纏いたい気分になる。そう、気分転換が必要だ。 

 

 

Bon Voyage★