合理性について ② | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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【漫画】豊臣秀吉の生涯~農民→天下人→暴君~【日本史マンガ動画】

 

 

合理性について ②

 

この世の中にあるものは、全て変化をしていくので、今は「有る」と思っているものでも、無くなってしまうのです。財産も、名誉も、権力も、無くなって、やがて死んでしまうのです。生老病死ですから、どこにも「私」などというものはありません。

それを故・池田大作は逆にとって、「我(が)をパンパンに張って、祈りを叶えるのだ。宇宙は自分の一念心の現れたものであるから、我(が)をパンパンに張って、弓を射て祈りを叶えるのだ!」とバカなことを言っていたのです。チャンチャラおかしいのです。池田大作は、弓を射って矢が当たったところに的を書いていただけです。そのようなインチキをやっていただけです。

仏教では、「我(が)はない」と言っているのです。「我(が)はない」とわかれば、この世界には何もありません。「何も無い」とわかれば、人生はたいした苦労はありません。

そのように思うと人生は、開かれてくるのです。「財産につかまりたい」と思ってもつかまることはできません。「死にたくない」と思っても、人間は必ず死ぬのです。「生きていたい」と思っても、どこにもつかまる場所はありません。すると、心がだいぶ楽になるのです。

お釈迦様は、そのことを最初に説かれたのです。「人間は、生老病死なのだ」と知ることも、当時の人間には難しかったのです。

「我(が)が無いと言ってもあるじゃないか。俺は永遠に生きるのだ。俺は大王だぞ!」と思っていたのです。「この素晴らしい自分が死んで無くなってしまうなど、考えたくもない」と思うから、死ぬことにたいして恐怖したのです。

だから、「死にたくない、死ぬのは恐ろしい」と思うのです。大王は、死ぬことに恐怖したのです。

戦国武将になって、天下を取って、人を大勢殺して、他人の領土を奪いました。「俺が領主になったのだ!」と言って威張っていたのです。

死ぬときになると、人間は布団に寝るのです。「太閤殿下は、まもなくご臨終です」と言われて、「俺がご臨終するだと? 俺はまだ臨終などしないぞ!」と思うのです。そのような連中は、天下を取るためにずっと人殺しをしてきているから、人殺しの世界にいつもいるのです。

死期が近づいて布団の中に寝ていても、人殺しの世界の中にいるのです。自分が殺した連中が刀をもって襲い掛かってくるのです。「秀吉、殺してやる!」と斬りかかってくるのです。

そうなると戦いの続きだから、布団の上にガバッと立ち上がるのです。「うわー!」と暴れると、家臣たちが「殿、お静かに」と言って、布団に寝かせようとするのです。死期が近づくと、自分が殺した人たちが襲い掛かってくるので、布団に刀を置いて、死んだ先も刀がもっていけるようにしてあげるのです。

武将のご臨終は、そのような最期です。死んでも目をカッと見開いて、虚空をつかんで死んでいくのです。それは何を物語っているのかというと、この世につかまりたいのです。

自分は死んでいくのですが、この世につかまっていたいのです。死んだ先は、自分が殺した連中が襲い掛かってくるのですから、死にたくないのです。だから、空(くう)をつかんで死んでいくのです。

武将や人殺しをしてきた連中が、布団の上で死ぬときは、死の恐怖におびえて死んでいくのです。悪人の最期もそうです。麻原彰晃は、刑が執行されるその時に「死にたくない、いやだ、死にたくない!」と叫んで、15分くらい暴れたのです。

看守が着て、「静まれ」と麻原彰晃を押さえつけて、絞首刑の台に昇らせるのです。麻原彰晃は、「死にたくない!」と15分くらい暴れたのです。人殺しをしてきた人間の最期は恐ろしいのです。

そのようなことをちゃんと知っていれば、「私には我(が)がない」ということをわかってくるのです。仏教は無我を説いたものです。誰も自分の我(が)につかまって永遠に生きることはできないのです。

「この世につかまることはできない」と思うだけでも、だいぶ心は軽くなるのです。そのような原理をちゃんとわかって仏教を見ていくと、すべて見えてくるのです。仏教とは、そのような教えです。

では、最終的にはどうすればよいのでしょうか? お釈迦様が涅槃するときに、弟子たちが集まったのです。お釈迦様は「私は今夜、涅槃をする」と言われるので、弟子たちは「お釈迦様、涅槃をしないでください。私たちはどのように生きたらよいのでしょうか」と言ったのです。

お釈迦様は、「自灯明だよ」と言われたのです。自灯明とは、自ら明かりを灯して進みなさい」という意味です。これは、涅槃経の教えです。自ら明かりを灯して未来に向かって進んでいくのです。

自ら欲望を照らして進んでもダメなのです。自灯明とは、自らの正体を明らかにして進んでいくことです。これが仏道修行の最初から最後まで一貫していることです。これが、基本的な仏教の考え方です。

それに外れている人は、仏道修行などしていません。故・池田大作は入り口から地獄へ堕ちてしまっていたのです。「天に向かって我(が)をパンパンに張って、弓を射るように祈りをかけるのだ!」と会員に指導をしていたのです。池田大作は、我(が)の塊だったのです。

「それが、如何にバカげたことなのか」ということが、わかってくるでしょう。そこからつくられた創価学会は、出鱈目です。創価学会は、仏教を信じる団体ではありません。池田大作を信じる池田教だったのです。

「故・池田大作は、両手両足を斬り落とされて、脳軟化症で死んだ」という説もあります。これは、本当だと思います。我(が)をパンパンに張ると、そうなってしまうのです。

池田大作は、ありもしない我(が)にしがみついていたのです。それが事実です。ありもしない我(が)にしがみついていたら、地獄へ逝ってしまうのです。無いものを「有る」と思って進んでいくのですから、それは地獄へ逝くしかありません。

「仏教を学ぶ」と言えば、合理性がでてくるのです。池田大作の生き方を見れは、「仏教を学んでいなかなった」ということがわかります。有りもしない我(が)にしがみついていただけですから、全く合理性のない人間だった、ということがわかるのです。

 

 

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