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尊敬する百田尚樹先生が、8月に成吉思汗のことを書くと言っています。非常に楽しみにしています。百田尚樹先生のことですから、おそらく普通の本ではないと思います。
でも、この話は僕もだいぶ前に書いています。思いだしてもらいたいものです。
僕は、『成吉思汗=源義経だったこれだけの理由』で、非常に面白い話をしています。「蒙古の大英雄である成吉思汗は、源義経であった」という説です。
この説を最初に唱えたのは、医者のシーボルトです。シーボルトが日本に来日して、いろいろと調べてみると、どうも納得のいかないことがあります。モンゴルの草原の中に成吉思汗のような大人物が現れるのでしょうか?
モンゴルの草原に住んでいたら、全国制覇をする必要は全くありません。50~60人の所帯がまとまって移動していく生活です。それがどうして全世界を席巻したのでしょうか? これは、真に不思議なことなのです。
そこでシーボルトは、「成吉思汗は源義経ではないのか?」と思い付いたのです。その説は賛否両論ですが、熱狂した人もいたのです。熱狂した中の一人に高木彬光という作家がいて、成吉思汗のことを書いたのです。
高木彬光の書いた小説では、主人公が病気で入院するのです。それから成吉思汗について調べ出すのです。天城山心中という、愛新覚羅 慧生(あいしんかくら えいせい)と学習院大学の学生Oと心中した事件です。新聞にも載った有名な事件があります。それに結論づけて本を書いたのです。非常に面白い本です。よく出来ています。僕も何回も読みました。
僕は「もう少し詳しく書いてみたいな」と思ったのです。まず、第一の疑問点は、鎌倉にいた源頼朝から「鎌倉に入るな」と言われたのです。源義経は、源氏の名将です。戦は全て勝っています。鵯越も、屋島の合戦も、義経は平家に勝っているのです。義経は「兄である頼朝に喜んでもらいたい」という純粋な気持ちがあったのです。すると、天皇が「お前に検非違使という位を与える」と言われたのです。今でいうと警視総監です。
それが鎌倉にいる頼朝の耳に届くのです。頼朝は「けしからん。あれほど、朝廷に接触してはいけないと言ったのに、検非違使までもらったのか。義経を鎌倉に入れてはならない」と怒ったのです。一種の嫉妬心です。
義経は戦に全て勝っています。負けたことはありません。それが後世まで尊敬されている理由です。頼朝は、嫉妬で気が狂いそうになってしまったのです。「コノヤロウ、俺より目立ったことをやりやがって、鎌倉には入るな!」と怒ったのです。
義経は「お兄様は何を怒っているのですか?」と言うのですが、頼朝が「鎌倉に入るな」と言うので、鎌倉に入れなくなってしまったのです。
そのうち、エスカレートして「義経を追放しろ」と頼朝が言いだしたのです。義経は危険を察知して逃げたのです。奥州の平泉の藤原氏の下に逃げたのです。検問の話が有名で後世にも残っています。勧進帳で代官に調べられて「お前は義経ではないのか?」と疑われたのです。
頼朝は平泉の藤原氏に向かって、「義経を差しだせ」と迫ったのです。何回も使者を送って、義経を差し出すように催促をしたのです。ところが藤原氏は源氏に対して恩義があるので、義経を差し出すことはしなかったのです。
頼朝は「義経の首を持って来い」と要求したのです。すると、藤原氏には杉目太郎という部下がいて、それが義経と背格好が似ていたのです。年齢もちょうど同じくらいだったのです。合戦をやって義経は死んだことになっているのです。
杉目太郎の首を持って、鎌倉に差しだしたのです。「これが義経の首です」と鎌倉に持っていくと首が腐っていたのです。さらし首は、10日くらいで臭いがして、30日近くも放浪してくると、首を入れた桶は臭くて、顔形も判別がつきません。
そのような状態で首を鎌倉に持っていったのです。頼朝に「どうか首実験をしてください」と言うと、腐っていて誰だかわかりません。頼朝は、材木座海岸に投げ捨てさせたのです。頼朝は義経の首だと信じていません。
「いよいよ、俺が出ていくぞ」と出陣して、奥州まで攻め上ったのです。奥州の藤原氏が「ここで義経が自害したのだ」という場所を見せても頼朝は納得しません。
「義経は何処へ行ったのだ? 再び鎌倉に攻めてくるであろう。義経は何処かに隠れたのに違いない」と思ったのです。「義経は海岸沿いに北海道に逃げたのだ」というのが、皆さんが知っている話です。
奥州から太平洋側を青森に向けて登っていくのですが、その時に証拠を残していくのです。「これは、弁慶が持っていた廿楽(つづら)です。お世話になったから、これをあげます」と言って、廿楽を残していくのです。「これは義経が持っていた短刀です。お世話になったからあげます、と言って置いていったのだ」というのです。それを辿っていくと、義経が太平洋沿いに青森に向かって逃げたかのように見えるのです。
そんなことはあり得ません。逃げる人間が、いちいち証拠になるものを置いていくわけがありません。まず、怪しまなければいけませんが、そのようなことを普通の人は怪しまないのです。
岩手から青森の竜飛岬に辿り着いて、蝦夷地に渡ったということになっているのです。ちょっと待ってください。疑問に思うことがあります。逃げている人間が、「僕はこのように逃げていきます」という証拠を置いていくことはあり得ません。
これはおかしいのです。追いかけてくる人の先回りをする人がいて、品々を置いていくのです。すると、「義経の鎧が見つかったぞ」「弁慶の廿楽が見つかったぞ」と言うと、「義経一行は、平泉から太平洋のルートで青森まで行ったのに違いない」と言うのです。
それで蝦夷に渡ったのです。それが一般的に言われているルートです。
義経は蝦夷地に行って、あちこちを歩き回ったのです。その証拠の品々が残っているのです。北海道では、「判官(ほうがん)さま」と言われたのです。九郎判官義経です。アイヌ人は「ここにも来ました」「あそこにも来ました」と言うのです。それもウソです。
藤原氏の親戚が大事です。これは十三湊の安東水軍です。安東水軍は、十三湊に200艘の船を持っていたのです。韓国や、シナ、天竺まで貿易を行っていたのです。義経は安東水軍から海外の情報を得ていたのです。
「どうせ兄の頼朝が攻めてくる。私はここで討ち死にはできない。大陸へ行こう」と決意して、大陸へ渡ったのです。これが大きな流れです。百田尚樹さんが、「どこまで触れるのか?」、注目したいところです。
シナが「北海道は俺のものだ」と言うならば、「中国は日本のものだと言おうじゃないか。ジンギスカンは日本人なのだ」、と百田尚樹日本国紀チャンネルでちょっと言ってしまったのです。
「これで行け!」と思います。まず、義経が持っていた能力は、軍事の天才です。京都の鞍馬山で学問の修練をしたのです。孫子の兵法や、様々な兵法書を学んだのです。
義経は、文武両道に優れていて、しかも天才的な戦の名人です。それが大陸に行ったのですから、大陸を制覇してしまいます。一部の説ではアイヌ人も連れていったのです。北海道を周って200人くらいアイヌ人を連れていけば、天下無敵です。
お金は安東水軍がたっぷりともっていて、黒竜江省から取れる金もたっぷりともっていたのです。部下は、300人くらいいて、船でアムール川を登っていったのです。たどり着いたのが、モンゴルの草原です。
モンゴル人は人がよいから、旅人を自宅に泊めてくれるのです。それで、奥さんも差しだすのです。そのような風俗があるのです。夜は奥さんが旅人に忍び寄ってくるのです。そうしないとモンゴル人の血が絶えてしまうのです。旅人が来たら、自宅に招いて子供をつくってもらいたいのです。そのような部族です。
義経から見たら、40~50人の部落はあっという間に制圧出来てしまいます。義経は戦の名人です。全蒙古を制圧することなど、いとも簡単です。そのような話だけでは義経が成吉思汗になったのかどうかわかりませんが、成吉思汗の旗は白旗です。源氏の旗も白旗です。源氏は九流の白旗です。
成吉思汗の旗も白で、しかも九本の白旗を立てたのです。それは一致しています。源氏の笹竜胆の紋章です。成吉思汗も笹竜胆を自身の紋章としたのです。
成吉思汗は皆の前に顔を見せなかったのです。出てきたのは、大男ですから弁慶だったのでしょう。本物の成吉思汗は奥の院にいて、出てこなかったのです。
義経は世界戦略を練って、世界を席巻したのです。そのエネルギーは源氏から来ているのです。まだ面白いことがあります。蒙古は敵を殺して財産を分捕って、2割は自分のものにしてよいのです。あとの8割は上納するのです。そのような規則があり、これは源氏の規則と同じだったのです。
これは、大事な思想です。「蒙古の成吉思汗は日本人だった」と言ったら、シナ大陸は全て日本のものになってしまうのです。ロシアのプーチンも、中国人も、東ヨーロッパ人にも蒙古の血が入っているのです。
成吉思汗は、「1600人の子供がいた」と自慢して言っていたのです。「人生の最大の楽しみは敵の国を亡ぼして、亭主の前で女を犯すことだ。これが人生最大の喜びだ」と言った話が残っていますが、そんなことはウソなのです。義経は、奥の院にいるのですから、そんなことはやりません。もっと上品です。そんなことは部下の者がやったのです。
百田尚樹先生が、成吉思汗をどのように書くのか楽しみです。京都の鞍馬山では、成吉思汗の命日に法要を行っています。名前も成吉思汗→ゲンギケイ→源義経です。これは、壮大なロマンです。成吉思汗は、全世界を席巻したのです。
これをもっと強力に言うと、ロシアのプーチンも成吉思汗にやられているのです。「ロシアを日本人が制圧したのだ。従ってロシアは日本のものだ。シナも日本のものだ。ヨーロッパも日本のものだ!」と、言えなくもありません。一応、そのように言える下地をつくっておくことが大事です。そのように思ってつくったのが『成吉思汗=義経であったこれだけの理由』です。非常に面白い本です。是非、お読みくだされ!
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