行動することは損か得か? ② | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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[徒歩行進・陸軍分列行進曲] 観閲式2018 陸上自衛隊

 

   西郷さんの心がわからないのか!

 

              義を言うな!

 

 

 明治政府にとって、不平士族は邪魔だったのです。だから、西郷さんは「俺が一緒に死んでやるから」ということです。それが西南戦争だったのです。それがわからないと、西郷さんのとった行動の意味はわかりません。

 西郷さんの思想は陽明学です。あんなバカなことはありません。「損得抜きにやれ!」ということです。損得勘定をすると人間は何もできなくなってしまうのです。

 損得を抜きにした行動のみが後世の人々の心に残るのです。損得でやった行動は全く心には残りません。損得抜きでやった行動は「何故、あんなことをやったのだろうか?」と人々の心に残るのです。生き残った人々の心に突き刺ささり、有効になるのです。

 明治の西南戦争以降は、反乱らしい反乱は起きていません。それは、西郷さんの心がわかったのです。西郷さんは、政府に逆らいひっくり返そうとしたのではありません。「俺と一緒に死のう。そうれば不平不満はなくなる。お前達ももうあきらめろ」という行動です。だから、西南戦争は人々の心に残っているのです。

 三島由紀夫もそうです。自衛隊乱入をやって、実際に人を斬ったのです。5~6人、死なないように斬ったのです。三島由紀夫の自決は、永久に心に残るのです。世の中が変わっていくということは、そのようなことです。損得では世の中は変わりません。人々の心の中に残っているのは、損得抜きの行動だけです。

 李氏朝鮮時代の韓国では、両班が一番良い思いをしていたのです。日本と朝鮮が一緒になって両班制度を廃止したのです。すると、両班が怒ります。両班は「俺達を縛るものはない。俺が憲法だ。俺が領民を縛りあげて好きな物はみんなもっていくぞ。領民を働かせて収奪するのは俺の権利だ」と思っていたのです。

 両班が領民の生殺与奪権を持っていたのです。両班は「おい、お金をよこせ」と領民に言うと、領民は「今、ありません」と言うのです。両班は「そうか、では鞭を打て!」と領民を鞭うちの刑にするのです。

両班は「いい女がいるな、こっちへ来い」と言うと、領民は「勘弁してください」と言うのです。両班は「うるさい、女を出せ! 逆らうなら鞭うちの刑だ」と言うのです。そのような世界です。両班が富を独り占めしていたのです。それが日韓併合により、両班がなくなってしまったのです。両班が諸悪の根源だったのです。

 すると、両班は「日本政府が俺たちの特権を取り上げた」と怒ったのです。両班が「俺の白丁はどうしたのだ、特権は何もないのか?」と言うと、日本政府は「はい、特権は何もありません。一般の民衆と同じになりました。偉くなりたかったら、試験を受けてください」ということをやったのです。

 それを両班は恨んでいるのです。韓国の初代大統領の李承晩、伊藤博文を暗殺した安重根は、両班だったのです。それを言わないから、わからないのです。安重根は何を恨んでいたのでしょうか? 「俺達の身分をなくしやがったな」と日本政府を恨んでいたのです。そのようなことです。

大義名分は朱子学です。陽明学は知行合一です。知ったことは、やらなければいけません。学問と言っても今の学問と違う学問です。屁理屈をこねて暗記することなどありません。単純明快です。

それが人間をつくっていくのです。朱子学にしても、陽明学にしても、中国の文献です。「子曰(しのたま)わく」と勉強することを素読と言います。素読も理屈ではありません。意味がわからなくてもよいから「子曰(しのたま)わく」と読むのです。何回も同じ文章を読ませるから、頭に入ってしまうのです。頭で理解してやる学問ではありません。

人間の行動もそれを知るべきです。知れば知るほど行動はできなくなってしまうのです。わかればわかるほど行動はできなくなるのです。わからないから行動するという面もあります。

バカな行動が天下を変えていくのです。頭の良い奴が「絶対にミスのないように」と考えたことは、忖度、忖度、忖度ばかりになってしまうのです。

司馬遼太郎も言っています。薩摩士族は、日本の最高傑作です。薩摩士族は、考えないで「義を言うな!」と向かってくるのです。「屁理屈を言うな!」ということです。薩摩士族は屁理屈を述べません。「チェスト!」と敵に向かっていくのです。

何しろ敵に対してすっ飛んで向かっていくのです。薩摩の示現流は受けがありません。普通の剣術は受けがあります。かかってくる敵を打ち払うというのがありますが、示現流はそれが全くありません。ただ、攻撃するだけです。

薩摩の示現流は、「コノヤロウ、コノヤロウ、コノヤロウ!」と打ってくるのです。ただ、それだけです。それで相手の攻撃をよけません。「如何に早く敵を斬るか」というのを太刀打ちというのです。だから、薩摩の示現流は恐れられたのです。剣術で一番怖いのは、薩摩の示現流です。

タッタッタッと走ってきて「チェストー」と斬ってくるのですから、受けはありません。示現流に二の太刀はありません。ガンガンガンガンと打ちあって、「チェストー」と斬ってくるのです。示現流に二の太刀はありません。

のように人間が行動するということは滅茶苦茶です。でも、よく考えてみると陽明学も朱子学も日本の土台になっているのです。非常に重要な人間の行動原理です。

これは違う話ですが、最近、僕が気に入らない話があります。それは「魔子とKKは、神の祝福を受けて」とA宮が言いました。天皇陛下までも言いました。「神の祝福を受けるまでは、この結婚はできない」と発言されたのです。

ちょっと待ってください。「祝福」という言葉を使いましたね。祝福という言葉は何でしょうか? 我が国には、祝福という言葉はいりません。何故かというと、皇族は国民を褒めたたえる立場にいます。

何故、皇族が神の祝福を受ける必要があるのでしょうか? 英語では、[blessing]と言います。神様は人間の上にいて、「それはよい行動だね」と神様が祝福をしてくれるのです。日本人にはそのような考えはないのですから、「祝福」などという言葉はありません。

天皇は国民を祝う人です。天皇が祝福されるなどということは、あり得ません。もうすでに、この考え自体がキリスト教の考え方です。何が祝福なのでしょうか? 天皇は国民を祝福する立場です。

だいたい皇族は、「祝福」などと言う言葉を使ってはいけません。「立派ですね」「天皇陛下が認めます」というほうが、よっぽどスッキリとしています。天皇が天の神から祝福されるのでしょうか? それは、キリスト教徒に毒された悪しき考え方です。

陽明学、朱子学を学んでいく者は自分を磨いていくのです。これは、なかなかできません。物を考えないで知行合一などという考え方はできません。それは、自分で訓練していくのです。

示現流は袴や、剣道着などありません。敵はいつ来るのかわかりません。それが家に帰って「今から袴をはくから待っていてくれ」などと言っている暇はありません。稽古も普段着で行うのです。

敵はいつくるのかわかりません。「家に帰って着替えて、はちまきを絞めて」、などという時間はありません。敵と思ったら、「チェストー」と向かっていくのです。わざわざ着替えることなどはしません。

木刀も持ちません。示現流の稽古では、丸太でやるのです。特別、練習のために木刀など使いません。その辺の薪雑把(まきざっぽう)でよいのです。いつ、いかなる時でも薪雑把を持っていくのです。刀があれば刀、薪しかなければ薪で戦うのです。戦争とは、そのようなものです。

そのような心構えが強い国をつくるのです。そのような人間が集まったら、始末に負えません。「義を言うな!」ということです。現代の人間は義を言うのです。屁理屈で誤魔化して、「法律に従って」と言うのです。

行動する時には法律は関係ありません。セミサベチという野蛮人の心を持った民族のみが生き残るのです。義ばかり言っている民族は、滅ぼされてしまうのです。再び日本人はそのような民族に生まれ変わらなければなりません。それが憲法問題の根本にある考え方です。A宮よ、義を言うな!

 

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