明けましておめでとうございます。
昨年は大変な年となって終わりを迎えました。新年こそ日本に新しい爽やかな風が吹くことを期待しています。
昨年は大変な時代でした。「安倍総理が辞任した」など、様々なことがありましたが、そんなことを僕は言いたくありません。
日本における最大の事件は、小室圭の問題です。昔から、身分違いの愛は破局を迎えるものなのです。しかも、身分違いの恋の原因は、女性です。皇族の嫁さんに向かえる女が八百屋の娘であったり、或はサラリーマンの家の娘であると、上手くいかないのです。ごく平凡な家庭であると、身分の高い貴族との恋愛結婚はあり得ません。
まず、第一番目に八百屋の娘が貴族に出会う機会はありません。八百屋の娘と皇太子殿下が出会うチャンスは絶対にありません。お車のお姿をチラリと拝見することはあっても、親しく話をするというチャンスはないはずです。
そのために護衛がついているのです。皇族は何処に行くにしても護衛がいるわけですから、2人きりで密会ができる機会があってはならないのです。その問題は、産経新聞の社説にも掲載されていたので読んでみればわかります。
アメリカでは、貴族の嫁さんをもらうためには、英雄にならなければなりません。無名の男は英雄的な仕事が国民に認められなければ、王族の娘と結婚することなどできません。
ロックフェラーの令嬢がその辺りを歩いているのでしょうか? 絶対に歩いていません。ロックフェラー家は、門から家に到着するまで車で15分かかります。大豪邸です。芝生が続いて、その奥に大豪邸が建っているのです。
ロックフェラーは、そのような大豪邸を世界の70ヶ所に持っているのです。そこには、多くの召使がいるのです。そんな家柄の人間と、道路工夫をやっている青年が一緒になることなど絶対にできません。
下世話な話では、たけしぐらいの芸人でもそうです。娘が料理人とくっついたのです。たけしも「俺の財産はみんな料理人が持っていくのか!」と怒っていました。「なんだかんだ」と言って、叩きだしたのです。そうなってしまうのです。
まして、男親にしてみたら、今まで育ててきた娘が料理人にさらわれて、自分達がつくってきた財産も料理人にさらわれてしまうのです。それが、耐えられないのです。たけしは実力派だから追い出してしまったのです。その男は、娘の彼氏だった時に図々しく、たけし邸に横柄な態度で来たのです。
小林旭も言っていました。自分の娘が彼氏を連れてきて、その彼氏は茶髪で、薄っぺらな野郎でヘラヘラ笑って、ため言葉で話すのです。「テメー、ここを誰の家だと思っているのだ? 小林あきらの家だぞ!」と言っても、彼氏はそんなことは知りません。小林旭も知らないのです。小林旭は、娘の彼氏の態度に怒ったなどという話もあります。
家柄の問題は非常に大事です。家柄の問題は、分をわきまえなければいけません。我等庶民の上に士分がいて、士分の上に華族(旧大名)がいるのです。庶民には、身分はありません。旧軍人には身分があります。その上に貴族(公家)がいます。
それと並んだ位置にいるのが大神宮の神主です。熱田神宮、宇佐神宮、伊勢神宮です。それぞれに令嬢がいた場合は、庶民とは身分が全然違います。普通の人は口もきけません。
皇室が鍵を忘れて、鍵穴からチョロリとネズミのような男が出てきたのです。プー小室は、「トントントントン」と背中を叩いて、「魔子ちゃん」と軽々しく話しかけたのです。そのような場をつくった警備の人間が悪いのです。
皇女に下人を近づけてはいけないのです。プー小室がなぜ皇女に近づけたのかというと、「開かれた皇室」などと言っているからです。「開かれた皇室」と言っているから、秋篠宮さまは、魔子ちゃんに皇族の教育をしていません。
「開かれた皇室」などと、くだらない文句だけが独り歩きをしていて、「皇室は開かれているのだ」と国民に言っているのですから、「魔子ちゃん!」と親しく話しかけても、とがめられないのです。
皇室というものは、開いてはいけないのです。奥の院に鎮まっているからこそ令嬢です。八百屋が、「魔子ちゃん!」と軽々しく口を利いたり、ジゴロやヤクザが「魔子ちゃん!」と軽々しく声をかけてはいけないのです。これがまず第一番の問題点であると気が付かなければいけません。
声を大にして言うならば、皇室というものは、身分制度です。何が民主主義なのでしょうか? 皇族は、それをハッキリと自覚すればよいのです。民衆に向かってニコニコと笑ってしゃべりかけると、隣のオバチャンに話しかけるような感じになってしまうのです。
小室佳代はそれを逆手にとって、「あんた、秋篠宮家はいくら給料をもらっているの? 1億4千万円もらっているの? 私に半分、ちょうだいよ」と、このようなことになってしまうのです。皇族に庶民が話しかけたらそうなってしまいます。
「あんた、いいわね。33億円の家に住んでいるの? 私の息子はあんたの娘と結婚するのよ。私はその母親よ。私にも家を建ててよ。33億円の半分でいいわよ。15億円くらいでいいからさあ、皇居の中に家を建ててよ。私も皇居に住みますから」このように言われてしまいます。誰も断れません。
「あんた、身分差別をするの? あんた、皇居に住んでいるのでしょう? 私も皇室と縁をもったのだから、家を建ててちょうだいよ。お金がないのだから、お金が稼げる仕事を頂戴よ。私も魔子ちゃんについていきますよ。魔子ちゃんの義理の母ですと言って、全国を行脚しようかしら」と言いだすようなことになってしまうのです。
お正月には皇族のお立ち台に上って「魔子ちゃんの義理の母親です」と言って、手を振るのでしょうか? 「正月のお立ち台に上ったら、いくらくれるの?」と小室佳代はタメ口で言うのです。そうなってしまうのです。
「いいわね、あんた。ダイヤモンドばかりそろえて。年間2千万円も衣装代に使っているの? では、私にも最低500万円くらいは出してよ。私も1千万円欲しいわよ」と言われたら、断る理由はありません。
「開かれた皇室」ですから、「身分制度はない」と言うのです。「では、私にも1千万円ちょうだいよ!」という話になってしまうのです。「私にも護衛をつけてね。私は魔子ちゃんの結婚相手の母なのだからね。護衛をつけてちょうだいよ。何処へ行くのも宮内庁の車を出してよ」と言うのです。
「これから三越へ行くから車を出してちょうだい、と私が言ったらあんたは車を出すのよ。菊の紋章の車に乗っかり、私はお買い物に行くのよ」となってしまうのです。
「皇室には身分制度はない」と言ったらそうなるのです。皇室というものは、身分制度の最たるものです。何故、そのような物の考え方をしないのでしょうか?
皇室は「世の中には身分制度があり、どうにもならないものが世の中にはあるのだよ」ということを教える立場です。「仕事が成功する」とか、「大富豪になった」などということは、松下幸之助のように努力すればなれるのです。
しかし、努力しても絶対になれないものがあります。それが皇族です。貴方がどんなに努力して、何百億円稼いでも、皇族にはなれないのです。皇族には血の掟があり、伝統があります。誰がどんなに頑張っても貴方は皇族にはなれないのです。
このようなものが社会に一本通っているのです。それと、努力すれば実現できる社会と、努力しても乗り越えられない壁があるのです。それを守ることにより、社会は横糸と縦糸が重なり合って頑丈な社会ができるのです。
何故かというと、「努力すれば何でもなれる」という横だけの社会ならば、マフィアでも、何でも金持ちになった奴のほうが得です。そうなるのです。ところがそいつらは、天皇にはなれないのです。
すると、「天皇の次に誰が偉いのかな?」と考えると、「ああそうだ、その次に殿さまがいたのだな。殿さまをもっと大事にしなければいけない」と思うのです。殿さまが事務員などやっていたらいけないのです。
天皇・公家・華族がいるのですから、殿さまらしい生活をしてもらわなければいけません。貴方は皇族になれないのです。華族にもなれないのです。それをよく表している映画があります。『鬼龍院花子の生涯』という凄まじい映画がありましたが、鬼龍院政五郎は四国一円を仕切っているヤクザですが、山内 容堂という殿さまが出てくるのです。時代はもう明治です。幕末の世は終わっているのですが、20年も経った世の中に殿さまが出てくるのです。
すると、「政五郎!」と呼び捨てです。すると鬼龍院は「はっはー!」と土下座して殿さまの顔を見ることもできません。対等に話すこともできません。今でもそうです。ちゃんとした地方に行ったら、そうです。
今でも九州へ行くと島津家のご当主がいるのです。仙台の伊達家も、ご当主がいるのです。今でも家老達が「はっはー!」とやっているのです。
これが司馬遼太郎の『坂の上の雲』です。秋山好古は、陸軍の大佐です。秋山が松山に帰って、殿さまに呼ばれてお城へ行くとお爺さんが出てきて「近うよれ」と言うのです。そのお爺さんは何かというと、家老です。明治時代ですから、家老などいません。
それが出てきて「もうちょっと近うよれ」と言うと、秋山は「はっはー!」と言って土下座です。それが陸軍大佐です。殿さまなど出てきません。会えないのです。家老で用事はみんな済んでしまうのです。
家老は「お前、若君が外国へ遊学するので、面倒をみろ」と言うのです。秋山好古は、二つ返事で「はっはー!」です。国家の法など関係ありません。それが今でもあるのです。
本間家は鎌倉時代の佐渡国守護代です。戦国時代まで佐渡を支配して、米沢へと移転しました。その財力を基礎に、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われるほどの栄華を誇りました。
その最高峰に天皇がいるのです。誰人であっても「はっはー!」となってしまうのです。それなのに、トントントン、「魔子ちゃん!」などとジゴロが気軽に話かけるような人ではありません。
プー小室の母親の小室佳代がしゃしゃり出てきて「私も天皇家の一族よ。うちの息子が魔子ちゃんと結婚したのだから、お天ちゃん!」などと言ったら、どうしますか? もう皇室は滅茶苦茶です。
「お天ちゃん、お元気? 私も元気よ!」と手を振るのです。よく、田舎のオバサンがやっています。「げんき~」と言って手を振るのです。それと同じです。無秩序になるとそうなってしまうのです。
天下というものは、秩序と無秩序があって成り立っているのです。「自由主義だ」と言っているのは、無秩序です。誰でも社長になれるし、大富豪にもなれます。それは、無秩序だからなれるのです。ところが、自由になれない社会があるのです。骨のようなものです。
人間の体も絶対に動かない骨格というものがあります。体があって、体の中心は骨です。肉体のほうは細胞が入れ替わっていきますが、骨は入れ替わりません。国家にも骨格というものがあります。骨格のことを「国體」というのです。
筋肉を増やそうと思い、ボディービルなどで鍛えれば、筋肉は増えるのです。マラソンも練習すれば、どんどん早くなるのです。これは、自分で作っていける世界の話です。どんな大選手になろうとも、イチローになろうとも、なれないものがあるのです。身分は変わりません。イチローが尾張の百姓とするならば、どんなに偉くなっても「尾張の百姓」という身分はとれません。
士分になることもできません。まして、公侯伯子男になることもできません。社会とはそのようなものだとわかる必要があります。上に立っている人は、そのことをよく自覚して、「私は尊い家柄の生まれなのだ。八百屋の男、詐欺師、ジゴロ、ヤクザと接触してはいけないのだ」と自覚しなければいけません。
まして、皇女は絶対に下の人間と親しくしてはいけないのです。そのように決めなければいけません。そのために学習院大学をつくってあるのです。学習院とは、そのような所です。皇族は守られているのです。三島由紀夫も学習院だから、「随分、苛められた」と言っていましたが、一応、けじめがついているのです。そのような社会を理解するのが第一歩です。
それなのに、プー小室は日本の小学校しか出ていません。中学・高校はカナディアンインターナショナルスクールです。何を勉強したのでしょうか? おそらく、「全ての人間は平等だ」と教わるのです。インターナショナルスクールなのですから、「世界中で人間は平等だ」と教えないとインターナショナルスクールなど成り立ちません。学校では、「人間は平等だ。人間に差別はない」と教えるのです。
プー小室はそれが骨の髄まで入ってしまっているのです。「みんな人間は平等である。皇室は一番悪い」などと、おそらく教えているのです。「王様や、皇族は一番悪いのだ」と考えているのです。だから、プー小室は、「魔子ちゃんを救いだす」と言ったのです。それは、「皇室から救い出す」という意味です。
「皇室は最悪なのだ。檻をつくって入れられているのだから、魔子ちゃんを救いだす」と言っているのです。そのようなことを寝物語で言っていたのです。「魔子ちゃんは皇室に生まれて気の毒だったね。自由な暮らしがしたいでしょう」と言われたら、「うん」と言うのです。そのような話をさせてはいけないのです。
宮内庁も、警視庁も、秋篠宮さまも油断をしたのです。それは、民主主義だからです。皇室の女は民主制度ではありません。皇族は身分制度で成り立っているのです。身分制度をバンと立てているから、国家から給料をもらっているのです。それで、皇族は何不自由ない生活をしているのです。それを庶民と同じに考えたら、それは違います。
庶民は自分で働いて生活をするのです。全く違うものなのです。それを混同するから、このようなことになるのです。これが今年、解決しなければいけない最大の問題です。今年はこの問題に天皇が決断を下されて、神国日本が蘇ることを大いに期待しています。
天皇陛下、万歳!
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