西部邁の自殺の真相 | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

 

  生前の西部邁の話を聞いてみました。要するに自殺の真相はこのようなことです。一つは念仏思想です。これは一つの大きな原因です。その他にも原因があります。「こんなくだらない社会に生きていたくない」ということです。

これも念仏思想とつながっています。西部邁は、「早くソクラテスや偉大な人達がいる世界に逝って、色んな話をしたい」と言っていたのです。その反面、今の現状をものすごく憎んでいたのです。「ウソつきだらけだ。こんなことでよいのか?」と、もの凄く怒っています。

その怒りの一つとして、「もし、金正恩のような悪逆非道な帝王が出てきたら、僕はテロを組んで必ずやっつける」と言うのです。凄いことを考えています。西部邁の人気があったのはこれです。行動派なのです。

「テロを組んで必ず相手を殺す」と言うのです。「殺すことがいいのか、悪いのかという論争は意味がないのだ。ソクラテスは悪法でも法だから守らなければいけないと毒を仰いで死んだのだから、僕もそれに近い。こんな悪法だらけの世界に居たくない」、そのようなことです。凄い言い方です。

昔から、このような論争が行われていて、結局これは三島由紀夫のこの一言に行きつくのです。「文化には生の文化と、死の文化がある」ということです。生きるための文化と、死ぬための文化です。両方あることが望ましいのです。

生き甲斐だけあって、死に甲斐がない社会はつまらないのです。「俺は生き甲斐はあるのだけれども、死に甲斐はないのだよ」「死に甲斐だけあって、生き甲斐がない」という社会もおかしいのです。

高度な文明国家というものは、この生き甲斐と同時に、死に甲斐も与えなければいけません。そのようなことを言っているのです。神風特攻隊の連中はみな死んでしまいました。最高に死に甲斐があったのです。

それはそうです。子供の頃から、「お国ために」と教育されていたのです。非常に大きな使命があり、「みんなを守るために死ぬ」という大きな使命があったのです。それには、天皇陛下がいなければならなかったのです。

これは、三島由紀夫の理論です。それに帰着するのです。ふわふわした生の文化だけに憧れていてよいのでしょうか? やがて、ジジイ・ババアになって死ぬのです。最近、有名人の惨めな姿が出ていますが、本当に惨めな姿です。

朱里エイコは美脚で有名な歌手だったのですが、最期は生活保護を受けて死んだのです。天地真理も認知症で生活保護を受けているのです。山城新伍は、老人ホームに入り、とっくの昔にあの世に逝ってしまいました。みんな悲惨な最期です。

都はるみは、もう立ち直れないようなことを言っています。歳を取ると惨めなのです。生きることでしか、生きてきていないから、それが無くなってしまった時には、惨めな老人です。何の魅力もない老人になってしまうのです。

それではいけないというので、西部邁を引っ張り出してきて、ユーチューブに出ていました。西部邁の話が、非常に新鮮に感じるのです。このような問題もそうですが、僕はもっと違う問題を見ています。

それは、「唯物論か、唯神論か?」ということに決着をつけていかなければいけません。共産主義は、唯物論です。人間が限りなき「物」になってしまうのです。人間を殺して半分にしても、「2が1になっただけだよ。何が悪いのだ? 2つの物を1つにしただけだ」と考えているのです。

100人が生きているところ、50人を殺してしまい、半分にしただけです。何か文句があるのですか? 人間が70億人で多すぎるのならば、半数を抹殺すればよいではないですか。そうすれば、残った人間は生きていけるのです。これが、共産主義の根本の思想です。

それはどのようなことかというと、唯物論者は人間の存在を「物」としか見ていません。人間は物なのでしょうか? 権力者になると、そのような思想が出てくるのです。「人間をどのように思うのか?」と言うと、自国民が多いと思ったら、「半数を殺してしまえばよい」と思うのです。そうではなくて、人間はどんなことをしてもみんなで仲良く生きていかなければいけません。

「殺してしまえ」という思想はすぐに理解できるのです。人数が多いならば、半分殺してしまえばよいのです。「みんなで仲良く生きていく」ということは、難しいのです。「何のためにみんなと仲良くしていくのか? 仲良くしていく必要などないじゃないか。半分にして楽に生きたほうがよいのではないか?」という考えは受け入れやすいのです。

「老人や片輪者はぶっ殺してしまい、残った者同士で仲良くやっていけばよいではないか」と言えば、わかりやすいのです。これが唯物論です。唯物論だと生き甲斐もわからなければ、精神の崇高なものもわかりません。人間は単なる「物」ではないということがわかっていないのです。

進化論とは唯物論です。どんどん人間は進化するのですから、劣った者は殺してもよいのです。役に立たない者はなくしてしまえばよいのです。ところが、このような唯物論の反対にあるものが唯神論です。唯神論と唯心論があります。同じものなのですが、心を解明していないので、わからないのです。

心の具体的な解明は、一つの例があります。勝海舟の妹の婿さん佐久間象山がいました。河上彦斎が斬ったのです。通称「人斬り彦斎」です。馬に乗ってきた佐久間象山の足を斬って馬から落としたのです。それからさらに一太刀加えて殺したのです。

すると恐ろしいことが起こったのです。「全身から光が出た」というのです。佐久間象山は偉大な人間だったのだと思います。その光に恐れおののいて河上彦斎は二度と人を斬ることができなくなってしまったのです。佐久間象山から光が出たのです。これが一つの例です。

それから、東日本大震災でありましたが、津波で海に流されている家の屋根によじ登る白い煙のようなものが出たのです。今でも動画で出ているので、見た人もいると思います。これが一つの実体です。

人間の存在とは、肉体だけではありません。肉体だけならば、人間と同じ元素を集めて、電気ショックをかけたら生物ができるのでしょうか? そんなことをしても生命はできません。これは、アメーバに至るまで生命はできません。電気ショックを与えても生命はできないのです。人間には生命をつくることはできないのです。

聖書では何と書いてあるのかというと、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。“Yahweh God formed man from the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath of life; and man became a living soul.”」と書いてあるのです。土は物質です。土で人の形を造っても、人間にはなりません。

ところが、「神様が土で出来た人間の鼻に息吹を入れると言うと、人間になった」というのです。この表現を考えてみるとよくわかるのです。

仏典から見ると人間が死ぬと微細身(びさいしん)になると言われています。人間が死ぬと、21日間、微細身になって残るのです。

その後、微細身は分解してしまい、人間の来世が始まるのです。微細身とは、言ってみると霊魂です。霊魂のようなものがあります。それがないと生命ができないのです。人間は神に創られたものであるから、人間は生命あるものはできないのです。

いくら頑張っても生命はできません。人間は人の命を奪うことはできるのですが、命あるものを創ることはできないのです。考えてみれば簡単なことです。人間は髪の毛一本自分の意志ではできないのです。

「俺の生命だ」と言うならば、自分の力で髪の毛一本はやしてみてください。そんなことは絶対にできません。人間は自分の力で髪の毛をはやすこともできません。自分の体が癌になってしまったら、自分で癌を治してご覧なさい。「自分の体だ」と言うならば、治せるはずです。

ところが、いくら頑張っても癌は治りません。それがわかった時に、人間の存在とは、もう一つ何かがあるのだとわかるのです。生きている肉体以外に何かがあるのです。肉体と精神は連動していますが、生命そのものを創ることはできません。このような話をしても、「人間は物だ」と考えている唯物論者にはわからないのです。

多分、唯物論は権力者が持つ思想です。「人間は物なのだ。ここに1億人いてもみな物なのだ。お前ら、半分殺すぞ!」と言って、権力者は人間を殺すことはできるのですが、人間を創ることはできません。

人の命を奪うということは、恐ろしいことであるから、「人間には心がない」と思いたいのです。これが、唯物論です。「自然界の物体が自然に出来たものであるから、人間は自然に返してあげてよいのだ」という考え方です。これは間違っています。これだけの単純な行動を見ても、人間は物ではありません。

人間を「物」と見ているので、共産主義の国には文学がないのです。「プロレタリアート」という労働者の文学はあっても、自由な発想から生まれる文学はありません。従って、共産主義の国では中国のように聖書をもっていただけで死刑になることは当然です。

共産主義者は、「心はない」と思いたいのです。心を説いている聖書は、自分達に必ず害をもたらすのです。「お前達人間は物体なのだ」ということを教えるために唯物論者なのですから、楽に人も殺せるのです。

北朝鮮の金正恩も唯物論者に違いありません。チベットやウイグルの人々を平気で殺して強制収容所に入れている中国も唯物論者に違いありません。唯物論者はもしかしたら、自分は神を信じているのかもしれませんが、人に向かっては唯物論を説くのです。「お前達は物なのだから、殺そうと生かそうと俺の勝手だ。お前の生命は俺が握っているのだ」と言うのです。

唯物論は、人間の生命を握ろうとする悪しき思想です。この地上から唯物論をなくさない限り、人類は幸せになれません。人間は「物」ではありません。「人はパンのみに生きるにあらず」とイエス・キリストが言いました。人間は、神様と共に生きているのですから、人間が勝手に人間を殺してもらっては困ります。

「神様と共にいる私は指一本触れることはできません」と言うと、唯物論者は「何を馬鹿なことを言っているのだ。お前の命は簡単に取ることはできるぞ」と言うのです。「貴方は武器を持っているのだから私を殺すことはできるでしょう。でも、私の命まで取ることはできません。命とは肉体が滅びても肉体の上にあるものだから、絶対に取ることはできません」。これが本当の人間の確信でなければいけません。絶対権力者に対しては、このように思っていなければいけません。

自由主義とは、勝手に人間を殺したり刑務所に入れたりすることはできません。自由主義とは、人間の陰に神を見ているのだなとわかるのです。アメリカは、キリスト教国だから神を信じているのです。それはそれでよいのです。

人類の悪は唯物論であります。この唯物論から人類が脱却しなければ人類の未来はありません。人間はパンのみに生きるのではなく、神によって創られたものであり、神のことを霊といい、御霊(みたま)ともいうのです。この霊を見ていく文明にしなければいけません。

日本の文明は霊をちゃんと見ているのです。言霊(ことだま)といいます。言葉というものは、神から出ているのです。何故、人間はしゃべっているのでしょうか? 人間がしゃべっているのではなく、神様がしゃべっているのです。

目に見えない世界があるのです。このような教育をしないと、残酷な人間になってしまうのです。元次官が子供を殺したり、平気で殺人を犯す人間になってしまうのです。東大を卒業しても、魂などわかっていないのです。正理会だけは、霊がわかる教育をしているのです。

 

お読みいただきありがとうございます。
よろしかったらクリックしてください。

応援よろしくお願いします!

 

    ↓↓↓


人気ブログランキングへ

 

『中杉 弘のブログ』2006年より、好評連載中です!

     ↓↓↓ 

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137