源義経は成吉思汗だった! | 中杉 弘の徒然日記

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※中杉 弘著『成吉思汗=義経だったこれだけの理由』は、

中杉博士の歴史常識論の視点から書かれた名著です!

 

 土曜日に「世界不思議発見、日本史最大の謎 消えた義経を追え!!」を大いに期待して見ましたが、期待はずれでした。僕の『成吉思汗=源義経だったこれだけの理由』に書いてある通り、成吉思汗になったポイントを抑えないと何も面白くありません。

 まず、第一に根本的に間違っているのは、義経は東北に逃げて12年間も住んでいたということです。逃げる時には、奥州から太平側のルートを通り、様々な物を置いていったというのですが、証拠を残しながら逃げていく馬鹿はいません。「ここに来ました」「次の所にも来ました」と証拠があれば、どこに逃げたのか追ってにバレてしまいます。

 青森の八戸には12年間も義経が住んでいたというのです。馬鹿ではないでしょうか? 自分が逃げる立場で考えてください。捕まったら殺されるのに「ここにも行きました」「あそこにも行きました」と、形跡を残していく馬鹿はいません。

 杉目太郎が義経の身代わりになって死んだということは、わかりますが、全体の整合性がありません。やはり、「逃げた」ということになっています。何のために北海道へ行ったのでしょう。意味不明です。北海道へ行って、義経伝説が各地に残されていますが、全く狂っています。

 まず、源義経は衣川の戦いの1年前にいなくなっていたのです。衣川で戦死したのは、藤原家の家来の杉目太郎です。その首がとられて鎌倉に送られたのです。焼けた首が半年も経って送られてきたので、腐乱が進んでいます。判別不能の首です。

 源頼朝に義経の首を差しだすと「見る必要はない!」と言って材木座の海に捨てたのです。実は義経はその1年も前に計画があったのです。奥州には4年間いたのです。その内の3年経ったときに外国の情報を得ていたのです。それが藤原家の従兄弟の安東水軍です。

 安東水軍は十三湊に拠点を置いて中国から天竺まで貿易を行い、船は200艘以上もっていたのです。大陸の情報、アイヌの情報もすべて安東水軍に入ってくるのです。義経はしっかりと学んだのです。安東水軍の先祖は安倍貞任です。安倍貞任の次男の高星丸が安倍を改め「安東」と名乗ったのです。

 十三湊の始まりは十三左衛門尉藤原秀栄(とささえもんしょうふじわらひでひさ)が、十三領主安倍氏季(うじすえ)に養子に入り、十三浦に開港したことがきっかけとなっています。

 平泉と十三湊の交通は、厨川(くりやがわ)から七時雨山(ななしぐれさん)をかすめ、鹿角(かづの)で奥羽山脈を越え、比内(ひない)から津軽平野へ抜け、陸奥湾に臨む外ケ浜を通って、津軽半島を北西に抜ける奥大道が利用された。公認史は外ケ浜と十三湊の結び付きを隠そうとしているが、奥大道で平泉とも結び付いていました。

 十三湊の豪商、船問屋の面々の筆頭は次のごとくです。

 越州屋三国惣兵衛 若狭屋小浜甚吉 能登屋七尾作太郎 堺屋河内忠次郎

 京屋山城金三郎 南海屋高松源兵衛 筑紫屋大隅勝麿 赤間関屋磯野忠頼

 出雲屋坂田与介 佐渡屋柏多次郎 松島屋宮越甚内 鎌倉屋由比藤太

 韓国屋李貞金 蝦夷屋渡島彦兵衛 唐土屋珍桃源 南蕃屋トマスラヴレオリ

  正平六年五月           十三湊検非違使庁 樺沢団右衛門 

※屋号をみてもわかるように、日本全国だけでなく、アイヌ、韓国、中国、ヨーロッパの商人も十三湊に店を構えていたのです。

 世界と貿易をしている安東水軍は、アムール川を進むとどこに行くかわかっていたのです。そのまま進むとモンゴル人が20~30人の集団で住んでいて、蒙古人の種族も安東水軍から懇切丁寧に学んでいだのです。

 次の行動は積極的にそこに行こうとしたのですから、逃げたのではありません。そこへ行こうとして、家来を集めたのです。

 藤原一族は莫大の金をもっていました。その金も奥州から出た金ではなく、アム-ル側からもってきた金です。安東水軍が貿易で得た金をたっぷりもっていたのです。義経から言うと、大陸から渡る重要な情報はもうもっていたのです。

 軍資金の金はたっぷりとあったのです。家来が十数名、アイヌ人を合わせると約200名はいたのでしょう。義経の軍団ができたのです。

 義経は軍事の天才です。それだけで充分です。「兄と戦っても仕方ない。おれは大陸へいくぞ!」と言って大陸に渡ったのです。年齢も32歳頃ですから、勇んで大陸へ渡ったのです。

 笹竜胆の家紋や、源氏の九りゅうの白旗もあります。この話には全然触れていません。何を言っているのでしょう。

 成吉思汗の特徴をとらえてみなさい。成吉思汗は九本の白旗です。義経も九りゅうの白旗です。同じです。成吉思汗の顔を見た者はいません。顔が出せなかったのです。代わりに弁慶が出た場合もあるでしょう。

 京都の鞍馬山では、成吉思汗の命日に法要が行われます。どのようなことを意味しているのでしょう。それは同一人物だからです。成吉思汗の最後の言葉は「我、故山に帰りたし」です。このように言っていたのです。では、故山とはどこでしょう。それは日本に決まっています。

 成吉思汗という名前もそうです。源義経(ゲンギケイ)=ジンギスカンになります。九りゅうの白旗と源氏の家紋があって、そっくりそのまま使っているのです。そして、成吉思汗は戦術の名人です。20~30人単位でパオで暮らす蒙古人は戦争などできません。

 成吉思汗は、一気呵成(いっきかせい)にシナ大陸を抑えて帝国を造ってしまったのです。成吉思汗は軍事の天才です。義経は軍事の天才ですから、戦争に負けたことはありません。まして、義経は「兄貴が攻めてくる」とわかっていたのですから、殺されるまで奥州にいるはずがありません。

 「殺されるくらいなら、大陸へ行ってしまおう。ただ行くのではない。シナ大陸を征服する!」というつもりで大陸へ渡ったのです。

 この説を最初に言いだしたのは、シーボルトです。シーボルトが義経の歴史を調べて「どうも義経が成吉思汗になったらしい」という英語の論文を書いたのです。伊藤博文の娘婿の末松謙澄がイギリスに留学していた時に「源義経チンギスハン説」という大学の論文は、シーボルトの説を紹介して書いたものです。「成吉思汗が源義経だった」という説は、シーボルトが発端です。

 その証拠に相撲は、圧倒的にモンゴル人は強いのです。モンゴル人は成吉思汗の子孫です。それは源義経の子孫でもあります。日本とモンゴルは、何から何まで似ています。言葉も発音もよく似ています。白鵬も変なアクセントはなく、キレイな日本語をしゃべります。

 そのことに触れないと、あの物語は完結しません。非常に期待して見たのですか、残念でした。成吉思汗には全く触れていませんでした。

 

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