騎兵隊天皇 | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。



楠正成は、南朝の忠臣です。


 終戦直後に突然「正当な天皇は私である」と名乗り出た人がいます。その人を熊沢天皇といいます。相当大きな大事件で様々な新聞が一面で取り上げていました。「熊沢天皇」と大騒ぎしたのです。

 それはうやむやになり、熊沢天皇の子孫は今では洋服屋をやっています。有名な事件です。他には長浜天皇がいました。「我こそは天皇である」という人が5~6人いたのです。何故、5~6人も出てきたのかというと、戦後でよいチャンスだと思ったのです。戦前では言えるわけがありません。そんなことを言ったら不敬罪で逮捕されてしまいます。戦後になって名乗りを上げたのです。

 万世一系の天皇の出自に対しては非常に問題があります。南北朝時代があり、天皇が2人に別れて、南朝と北朝に別れて、「天皇を交代しよう」という時代もありました。三種の神器も南朝と北朝を行ったり来たりです。

 そのような時代があったのですが、今上天皇は北朝の天皇だと言われています。孝明天皇の血筋であり、睦人親王の孫にあたります。それが違うというのです。山口県の長州には天皇がいたのです。これが大室寅之助というのです。

 初めて聞いたという人もいるかもしれませんが、大室寅之助という人が幕末期にいて、江戸時代は庄屋の家だったのです。これは南朝の後醍醐天皇の弟一皇子、護良親王の子供の光良親王の子孫を長州の大室家でかくまってきたのです。

 それは当然考えられることです。いざ、何かあった場合、長州は天皇を担いで表に出なければ玉(ぎょく)がありません。長州は大事に大室家で天皇の子孫を育ててきたのです。伊藤博文は騎兵隊の力士隊隊長でした。伊藤博文は相撲取りのように大きな男だったのです。この力士隊に大室寅之助は隊士として組み入れられたのです。これが地元で言われている「騎兵隊天皇」の所以です。

 この大室寅之助が孝明天皇の子供の睦人親王に成り代わって、明治天皇に成ったのだと言われています。さて、この真偽のほどは一体どうなのでしょうか。地元では明治天皇のことを「騎兵隊天皇」と言っていますが、大室寅之助は確かに存在したのです。

 明治天皇は読み書きが上手で和歌も上手で、和歌も何百とつくっています。どうして上手だったのでしょう。長州の萩には玉木文之進という吉田松陰のオジサンがいたのです。吉田松陰も玉木文之進に育てられたのです。玉木文之進は教育者でものすごく厳しい人です。その中に大室寅之助がいたのです。この玉木文之進にみっちり教養を鍛えられたのです。

 大室寅之助がすり替わって明治天皇になっても何の不思議もないわけです。何故ならば、南朝の血を引いているということです。別に天皇の子孫であるということに変わりはないのです。どこかの馬の骨が出てきて「私が天皇だ」と言ったわけではないのです。

 孝明天皇は暗殺されたという説があります。睦人親王も暗殺されたと言われています。これをやった下手人は伊藤博文だと言われています。韓国で伊藤博文を殺した安重根の供述調書の中で「天皇を殺した伊藤博文は許せない!」と言っているのです。安重根はそのような情報を知っていたのです。「だから私は伊藤博文を殺したのだ」と言っています。

 この問題は、皇居に行ってみるとわかります。皇居に行くと馬にまたがった武将の銅像が建っています。これは楠正成です。楠正成は、南朝の忠臣です。後醍醐天皇に仕えて徹底的に戦って死んだ武将です。この南朝の忠臣がなぜ北朝の天皇の皇居に建てられているのでしょうか? おかしいのです。これは不思議なことで不自然です。楠正成は北朝の忠臣ではありません。現在の天皇は「北朝の天皇だ」と言われているのです。

 それから鎌倉に鎌倉宮という真っ白い神社があります。鶴岡八幡宮の右の道を行くと真っ白な神社があります。これは護良親王が非常に悲惨な死に方をした場所です。神社の境内に行く途中に小さな洞穴があり、この穴に護良親王は幽閉されていたのです。

 それをお聞きになった明治天皇が「そこに神社を造れ」と言われて、今では立派な真っ白な神社が建っています。鎌倉に行ったら鎌倉宮に是非行ってもらいたいと思います。これは護良親王を祀られた神社です。

 後醍醐天皇は12人も子供がいて、護良親王の系列が大室寅之助です。このように考えるとつじつまがピッタリと合うのです。何故、明治になって皇居に楠正成の銅像が建ったのか? そして、鎌倉宮が建ったのでしょうか? 明治天皇は後醍醐天皇の事績に対してすべて検証して神社を造られたりしているのです。

 なるほど。このすり替わり論はそこからきているのです。ただ、我々は心配はいりません。いずれにしても明治天皇は大室寅之助が成ったにしても、立派な天皇です。玉木文之進によって、徹底的に鍛えられた教養を持っているのです。

 だから、長州の連中は知っているのです。この部落を田布施といいます。田布施村から明治天皇が出たのです。地元ではみんな偉くなっています。佐藤栄作、岸信介、橋本龍太郎、軒並み偉くなった人間が大勢出ています。不思議なことです。歴代総理大臣が何人も出ています。田布施村は小さな村です。柳井市と光市に囲まれた、へんぴな土地です。この村は昔から朝鮮部落と言われてきたのです。

 何故、朝鮮部落と言われたのかというと、天皇をかくまってきたので、むしろ外部との接触を避けてその村独自でやってきたのです。田布施村からは偉い人間が続出しています。共産党の宮本顕治は田布施村の隣の光市出身です。

 長州の殿様の大内家が朝鮮と戦争をしたときに、朝鮮から捕虜を連れてきて、捕虜を田布施村に住ませたのだと言われています。その子孫は朝鮮人だと言われています。これは何百年前の話です。昨日や今日の話ではありません。

 そのうちの1人が岸信介です。岸信介は選挙に出ると「ガンス、ひっこめ!」と言われたのです。昨日来た朝鮮人という意味ではなくて、何百年も前に来て田布施村に住み着いていた朝鮮人です。岸信介はその子孫です。

 まあ、そのような意味ではこれは許しましょう。もう何百年前に日本に来ているのですから、今日来た朝鮮人ではないから許してもよいのだと思います。これが日本の非常に大事な秘密であり、明治天皇の秘密です。明治天皇は大男で相撲が大好きだったのです。今でも天皇家は相撲を愛されています。お爺ちゃんが相撲取りだったのです。

 明治天皇は写真を撮られることを嫌われて、写真は1枚もありません。「あいつ、大室寅之助だ」となってはまずいので、写真を撮らなかったのです。ただ、1枚だけあって大男だと証明されています。我々が目にしている明治天皇の肖像は絵なのです。西郷隆盛も写真は1枚もありません。肖像画は絵なのです。

何故、明治の政権の変更が行われたのかというと、長州藩は西郷隆盛に会ったのです。西郷さんは南朝の菊池という家柄です。もう滅びたのですが、南朝の家来です。西郷さんは南朝の家来だと思っているのです。

だから、そこで長州から「実は南朝の天皇を担ぎ出そうとしているのだ。協力してくれ」と言われれば、西郷さんは「よし、それで行こう。天下を取ったならば天皇を変えるぞ!」と思ったのでしょう。

我々から言うと、天皇はどちらでもよいのです。南朝の天皇も天皇の血を引いた天皇です。過去には南北朝に別れて争ったこともありますが、万世一系の天皇であることに変わりなく、天皇に対する尊敬の念は変わりません。これが田布施町の秘密です。まだまだ多くの秘密が田布施町にはあります。



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