北条早雲について | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

5月3日、「小田原北條五大祭り」がありました。武者行列を行い、大勢の見物客が集まりました。

北条早雲がどのような人物なのか、ほとんどの人がテレビを見て知っていますが、本当の姿をとらえているものがないので、一言述べておきたいと思います。

北条早雲の最初の名前は、伊勢新九郎長政といって、桓武平氏の流れです。ここが大事です。彼は公務の中で世の中の乱れを治そうとして、真面目に公務に励んだのです。ところが汚職はあり、公家は腐敗して、民衆は苦しんでいます。

「このような政務では民衆を救うことはできない」と考えたのです。それが一点です。徹底的にやったのです。その後、「仏教をもって世の中を治そう」と考えて、仏門に下り、仏弟子となるのです。そこで、12年間くらい修行したのです。1~2年修行したのではなく、本当に真面目に仏教を修行したのです。極めた仏法をもって世の中に出てくるのです。仏教を説いて、信者もできはじめるのですが、とてもではありませんが仏法は政治権力にはかないません。

あそこに飢えている人がいたら仏法では救うことはできません。政治権力ならば、「お米をわけてあげろ」と言えば救えるのです。結局、「仏教は役に立たない」と知るのです。民衆救済に仏教は役立たないのです。おそらく法華経ではなかったのです。

それでまた政務に戻るのです。やはりダメなのです。腐り果てているのです。悩んで、悩んで60歳近くになってしまい、最後に到達したのは「武力をもってこの日本を統一する」と考えたのです。この流れがテレビではよくわかっていないのです。

北条早雲は「人々を救いたい。政治で救いたい」と思いましたがダメでした。次に「仏教で人々を救いたい」と思いましたが、これもダメでした。また政治に戻ってもやはりダメでした。最後に「武の力である」と考えて、自ら武将になるのです。武将としての働きをして67歳のときに、初めて軍を起こすのです。すごい人です。70歳過ぎて一国一城の主になるのです。

それから北条早雲の人生は始まるのです。88歳まで生きたのです。この前段階がよくわからないと、「乱世の梟雄」「戦国時代の始まりだ」と、くだらない悪口を言われるのです。

戦国の武将は成功した暁には家を残したのです。「北条家」という家を残したのです。最初は「伊勢」だったのですが、二代目の氏綱が「北条」を名乗ったのです。家を残すということを考えたのです。

もう一つ、大事なことは血を残すということです。武将はみなこれを工夫してやったのです。だから、織田信長の子孫と称するスケートの織田信成が出てきました。信長の子孫は絶えているのですから、子孫がいるわけがありません。どこから出てきたのでしょう。

必ず家を残し、血を残したのです。家というものは残らない場合が多いのです。豊臣秀吉の子供の秀頼が「後をとってずっとやれるか」と言えば、やれないとわかるのです。自分は運よく皆を抑えているけれども、自分が死んだら家康はいる、伊達政宗もいる、何しろ狙っている奴らが多いのですから、秀頼は持ちません。

秀吉は何遍も「秀頼を頼むぞ」と涙を流して頭を下げて「仲良くやってくれ」と言っても、それでも家康は裏切るのです。家は残らないということを知っているのです。

では何を残すのかというと血筋を残すのです。この血筋は明らかにわかれば殺されてしまいます。北条の残党だとわかれば殺されてしまいます。数代前からやるのです。今、御落胤をつくれば殺されてしまうから、数代前にさかのぼって自分が元気な間に、隠れ姓の分家をつくっておくのです。

我が家の北条家は分家であり、黒須祐右衛門直政とはそこからきているのです。考えてみると直政とは、4代目「氏政」と五代目「氏直」にあたります。ちゃんと証拠を残して、「黒須祐右衛門直政」という家名をもって土着させて、北条家と関係のない形をとったのです。そうすると血筋は残るのです。すごい智恵なのです。

血を残す、家を残す、家は残らない、せめて血だけは残したい。秀吉はそれに失敗したのです。だから子孫は残らなかったのです。

このようなことを考えると、北条家は終わったのです。これは黒田官兵衛にだまされたのです。小田原城に籠城していて、びくともしなかったのですが、秀吉が一夜城を造ったのです。実際は3日くらいかかったのですが、何もないところにある日突然城ができて、天守閣まで建っていたのです。

難攻不落の小田原城も負けたわけではないのです。自ら開城したのです。その時に交渉したのが、黒田官兵衛です。戦いによって滅びたものではないのです。黒田官兵衛が秀吉の特使として、小田原城に乗り込んで「秀吉の傘下に入りなさい。その代わり、命は助けます」と約束するのです。それで開城したのです。

開城した後で秀吉は「殺せ!」と言ったのです。黒田官兵衛は立場がなくなってしまい、悩むのです。これではだましです。秀吉もそのようなことをやり、晩年はボケているのです。平気で人を殺すようなことをしなかったのが秀吉ですが、晩年は平気で人を殺してしまうのです。

人間は権力を握るとボケてしまい、何でもやってしまうのです。「自分がすべて正しい」となってしまうのです。それで、小田原城は開城したのです。戦をして負けたのではありません。小田原城のお堀は発掘されましたが、お堀には仕切りがいくつもあります。僕はわかりましたが、これは敵が船で攻められないようになっているのです。北条家は戦の名人だということが考えられます。

秀吉も晩年はボケ老人でした。


 

ご愛読ありがとうございます。

よろしかったらクリックしてください。

応援よろしくお願いします!

    ↓↓↓

人気ブログランキングへ


『中杉 弘のブログ』2006年より、好評連載中です!

     ↓↓↓

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137