僕の文学論 | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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「文学が好きだ」という人がいます。「文学作品とは一体何だ?」というと、すべてウソです。文学とは作り物です。小説は作り物です。何が小説家として面白いのかというと、「ウソをつくのが上手い」ということです。ウソをつけない人は、小説家にはなれません。

 小説家は面白い話をつくるのです。現実にはそのような人間がいないのに、いたかのようにしてつくっていくのです。司馬遼太郎もそうです。実際に見たわけでもないのに、ありありと状況を見てきたかのように書くのです。それはウソなのです。

 司馬遼太郎の『燃えよ剣』の最後もそうです。最後の日になると土方のところに近藤さんが現れるのです。沖田もいるのです。死んだ連中が土方の執務室へ入ってくるのです。「おお、皆来てくれたのか」と言って、翌日に戦死するという話です。

 そんなことを司馬遼太郎は見てきたのでしょうか。見てきたわけがありません。司馬遼太郎の創作の世界であり、ウソなのです。ウソは上手につけばつくほど「よい小説家だ」と言ってくれるのです。すべてそうです。

 僕の好きな三島由紀夫の『豊饒の海』四部作もそうです。事実はどこにもないのです。登場人物はすべて架空です。小説とは、知性あるウソなのです。ウソを知性で固めてあるのが小説です。知性がない人間は小説など書けません。書いたとしても全然面白くありません。

 小説家とはテーマを持っています。三島由紀夫は「魂」ということが小説のテーマです。川端康成のテーマは「愛」です。ヴィクトル・ユーゴーの小説『レミゼラブル』は「無情」です。読んでいる人は、無情に興味をもつので、無情の物語を自分でつくるのです。

 『若きウエルテルの悩み』は、やはり自殺願望です。人間は生命についてよくわからないので、この世に生きている意味がわからないのです。そこをテーマにして矛盾している人生を取り上げて、面白おかしく悲しく美しく書くのです。

 ところが人生のテーマは愛もあれば、死もあれば、無情もあれば、憤慨もあります。左翼文学などはそうです。憧れもあります。「もし、こんなことがあったらいいな」というロマン小説ができるのです。

 みなテーマを決めているのです。スポーツがテーマの人もいます。ラグビーなど団結することに興味を持っている人もいます。そのようなロマンをつくるのです。小説の中に何が入っているのかということをまず見ると、作家の傾向があります。

 太宰治のテーマは自殺です。その奥には念仏の無常観があります。「この世は意味がないから、早く生が終わりたい。この世は楽しいところではない」と太宰治は思ったのです。

 それから谷崎潤一郎のように官能に惹かれていく人もいます。知性はあるのですが、それがどうしても捨てられないのです。手足がない乙武洋匡君は抜群の女好きです。奥さんがいて、子供が3人います。その他に彼女が3人います。「すいません」と謝ったのです。よくそんなことができます。そのような奴もいるのです。官能に美を感じたのが谷崎潤一郎です。

 そのようなものから「やめたい」と思って反省して文学を書いた人もいるのです。瀬戸内寂聴なんかそうです。自分の業をみつめて、書くことにより打ち勝っていこうとする文学です。

 「お寺の陰にホモがあり」というように、文学の背後にはそのようなものがあるのです。これはわかりやすいのです。三島由紀夫の最初の作品は『花盛りの森』です。どのような小説かというと、聖セバスチャンの肖像画を子供の頃に見たのです。主人公が十字架に磔になり、矢で突き刺されて死ぬのです。

 「それを見たときに異常な興奮を覚えた」と三島由紀夫は言っているのです。それが最初です。三島由紀夫は本質的にはサゾなのです。それと同時にマゾでもあります。サドマゾです。「生と死を明らかにしたい」と思っても、本質的には最初のサドマゾが抜けないのです。

 最後に三島由紀夫が切腹して首を斬らせたのは、完全なサドマゾです。しかも、「あの世に行こう」と言った森田必勝と共にやったのです。男色の匂いがあって、最初に感じたことがそっくりそのまま表れているのが三島文学です。その途中で様々なものが現れてきますが、それは変形であり、一番の根本にあるのはそれです。



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