狂気と正気 | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

2・26事件のときに出陣を決意した野中四郎陸軍大尉が窓にハンカチをあてて我れ狂か愚か知らず 一路遂に奔騰するのみと辞世の句を書いています。

 このように言って野中大尉は決意したのです。「我狂か愚か知らず」「2.26事件を起こそうとするのは狂っているのか、愚かなのか知らない。しかし、自分はやるのだ」と決意したのです。

この言葉は誰がつくったのかというと吉田松陰がつくったのです。吉田松陰が「僕は狂愚(きょうぐ)だ」と言ったのです。狂愚であってもよいのです。狂っていると思うでしょう。弟子たちは「先生、辞めてください」と言うのですが、何しろ吉田松陰は真っ直ぐいくのです。曲がらないのです。

 普通は障害物があるとよけて通ります。吉田松陰は、それをしないのです。思い込んだら真っ直ぐに行くのです。よけたり、曲がったり、止まったりしないのです。真っ直ぐにいくのを狂愚と言うのでしょう。

 これに影響されたのが三島由紀夫です。三島由紀夫も狂愚の行動をとったのです。今から46年前の平和な時代に三島由紀夫は「憲法を改正しろ!」と言ったのです。誰もそんなことはいいません。自衛隊も日日の生活を満足して、能天気な考え方でいて、そんな切羽詰まった状況でもなかったのです。

それなのに三島由紀夫は軍服を着て軍刀を持ち、しかも自衛隊市谷駐屯地の総監室に殴り込んで総監を盾にとって縛り上げて、諸君は武士 だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。と言うのです。

 自衛隊員は「文士キチガイ、のぼせるな!」、「バカヤロウ」、「かっこつけるんじゃない!」とヤジを飛ばしたのです。すると三島由紀夫は、「わかった。君たちの意見はそうなのだな。もういい」とパッと総監室に下がってしまったのです。

 その間、益田総監が縛られているのです。「では予定の行動に入ります」と言って三島由紀夫は切腹したのです。益田総監の目の前で首を斬り落としたのです。森田必勝も首を斬られて二人の首が並んだのです。

 もう狂気の沙汰です。平和な時代に、夢にも思わないことです。しかも世界的に有名な作家が軍服を着て切腹をして首を斬られて大騒ぎです。世界的な大ニュースでした。そのときにただ一人まともな意見を発表した人がいたのです。

 この事件について全面に新聞に意見を出した人がいたのです。それが司馬遼太郎です。「これは狂気の行動である」と言うのです。狂気の行動とは吉田松陰がとった行動です。狂気の行動だけが革命の元亀(げんき)になるのです。

 普通の思考で、普通の考え方でいったら革命などというものは起きません。狂った誰かが真っ直ぐに「ウワー」とやるから、皆がそこについていくのです。「革命の元亀(げんき)は狂気でなければならない」と司馬遼太郎は言ったのです。

 三島由紀夫の11月25日の決起は吉田松陰の命日に行ったのです。狂気の行動です。2.26事件もそうです。半分はためらっているのです。「でも、やらなければいけない」と考えて決起したので狂気の行動です。

 「自分の行動は狂なのか愚なのか」、2つ合わせて狂愚になるのです。でもやるのです。それをやった結果死刑になるけれども後々までも、2.26事件は語られていくのです。三島事件も語り継がれています。

 三島事件があって、あれから自衛隊は大きくかわったのです。今見たらわかります。あの頃の自衛隊ではありません。警察予備隊などという生ぬるいものでしたが、今はどう見ても軍隊です。そのように変わっていくのです。

 狂愚の行動は、狂気を発するのです。「革命をしよう」と思うと狂気を発しないとできないのです。通常の思考ではできません。

 それに比べて正気とは狂った考えではなく、まともな考え方です。いつも冷静に見ている考えです。正気の中からは革命は生まれません。革命の原動力は朱子学に基づくところの行動哲学としての狂気です。

 ところが我々も日常生活の中で何気ない行動をしているのですが、ある日突然に親父が妻を殺したり、子供がお父さんを殺したりするのは狂気の行動です。何気ない日常の中で正気で生きているのですが、突然にして何かが囁いて急に変な行動を行うのです。狂を発するのです。それで治まればよいのですが、政治的な問題点をもつと革命などが起きてくるのです。

 個人的な問題で狂気を発すると自殺したり、人殺しをしたり、わけのわからない行動をするようになるのです。実は狂気とは自分の中に同居しているものだと知らなければいけません。

 「正気である」と思っている自分の中に、実は狂気があるのです。仏法的に言うと縁に触れて目覚めると、突然にして狂気にかわってしまうのです。狂気の人間達も正気に戻る瞬間があるのです。

 狂気な行動をとって死刑になり、死刑の前日になるともう正気に戻っているのです。ずっと狂気ではいられないのです。「明日銃殺だ」と言われると正気に戻ってしまうのです。

 人間の歴史はどちらかというと狂気が歴史をつくっているのです。フランス革命も狂気です。平和な時代でも暴走族が出てきて「ぶっ壊せ!」とやるのです。平和な時代はそんなことは必要ないのですが狂気がでてきてしまうのです。

 ISISも狂気の行動です。誰がみても正気の行動ではありません。しかし、やっている人達は正気なのです。狂気に駆られてやってしまうのです。後になってみると「なんてことをしたのだろう」と思うのです。だいたいそんなことです。

 でも、そのようなものによって歴史は動いているというのも事実です。自分が持っている狂の力、或は正の力、これをよく考えないといけません。他人事ではありません。



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