社会科学の問題について | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
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世の中に社会科学という学問があります。大学にも社会科学部を名乗る学部はたくさんあります。社会科学とは、何を勉強するのかというと、社会について勉強するのです。社会とは、政治的社会がまずあります。資本主義か、共産主義です。

 「どちらの社会が良いのか?」と考えます。研究しない人にはわかりません。「社会主義はこのような社会、自由主義はこのような社会、これは良いけれども、これは悪い」ということがあります。

 自由主義社会からいうと、「人間は自由だ」と言います。しかし、貧乏人には経済の自由はありません。確かに形上では自由ですが経済の自由はありません。お金をもっていなければ何もできません。お金をもっている人は、何でもできます。「みな平等だ」と言っても資本主義社会は平等ではないのです。このようになってきます。

 社会科学はそのようなことを前提にして、「人間の社会はどのようにして見たらよいか?」ということです。指標(メルクマーク)というのです。「何を指標にしてみるのか?」ということです。「良い社会、悪い社会」と言ったところで、何の基準で見るのでしょう。何が良い社会なのでしょう。

 そこで、社会科学を初めてつくったデニケムという人が、このように考えたのです。「その社会が良い社会か、悪い社会か、判断するには自殺率を数えればよいのだ」と言ったのです。

例えば、「アメリカで年間10万人自殺をしている。ロシアは年間1万人しか自殺をしていない。どちらがよい社会なのか?」ということは、指標がないとわかりません。

 簡単に見て、「アメリカはロシアの10倍の自殺率があるのだ。これはよくない社会だ」とわかるのです。それで、一つのことがわかってくるのです。

 次に年齢別の自殺率というメルクマークをつくると、年齢別の自殺率が出てくるのです。例えば、10代の自殺率、20代の自殺率、30代の自殺率、40代の自殺率、50代の自殺率、60代の自殺率を見ていき、アメリカの60代の自殺率、日本の60代の自殺率、ロシアの自殺率、全体の自殺率を見るとアメリカの社会が一番悪いけれども、60代で見ると一番悪いのはロシアだとします。すると結論が出て、社会が立体的にとらえられるのです。

 単なる自殺の数だけではなくて、「10代、20代、30代の自殺率を見ると、この社会は全体的にはよくないけれども、年齢とともによくなる社会だな」ということを見ていくのです。

 その社会を見ていくためのメルクマークは、自殺率だけではなく、他にもたくさんあるのです。結婚率もあります。結婚率を見て、「結婚が多い社会、少ない社会は少子化なのか」ということです。それによって、「結婚率が多く、子供が多く生まれている社会は良い社会なのか、結婚率が下がり、子供が少なくなっていく社会は悪い社会なのか」と見ていくのです。

 社会科学は「いろいろなメルクマークを経由して社会を見ていきましょう」という学問です。良い社会、悪い社会というものを、相対的ではあるけれども、そこで導き出して論ずることができるのです。そのような指標がないと、良い社会、悪い社会などと言えません。

 思い付きで「アメリカは悪い社会ですよ」、「ロシアは良い社会ですよ」と言ったところで、何の根拠もないのです。根拠に基づいて、勉強することを社会学というのです。

 学問には良いも悪いもないのです。社会を見る道具が社会科学ですから、良いも悪いもないのです。ところがそれがわからない奴は、そこにはまってしまうのです。どのようにはまるのかというと、「共産主義は良い社会で、資本主義は悪い社会だ」このような結論だけが頭の中に入ってしまい、社会を見るとますますそのように見えるのです。

 これが共産主義にかぶれる一つの物の見方になってしまうのです。一旦、そのような見方をすると、全てそのように見えるのです。会社に行っても「経営者というものは悪い」と、もうそのように思ってしまうのです。「我々が儲けたお金を搾取している。我々労働者は安い賃金で働かされているのだ。資本家にだまされているのだ」と考えるのです。早稲田大学社会学部出身の高橋もそのような考え方です。

 実はそうではないのです。一番努力しているのは、経営者なのです。朝早くから夜おそくまで、いつも仕事のことを考えて、儲けることを考えて、皆の給料をいかに支給するかを考えているのです。皆に給料を多く払ってしまうと会社は存続できません。やはり、会社が存続するためには内部留保をして、お金を残しながら余剰金を払っていくという、一番大きな仕事をしているのは経営者です。これは物の見方です。

 共産主義かぶれの労働者から見ると「経営者が悪い。搾取している」と思うのです。搾取ではないのです。「皆にご飯を食べさせるためにどんな努力をしているのか」ということです。そのように見るのも、見ないのも本人次第です。

 それと同じで学問も使い方によって、よくも見えるし、悪くも見えるのです。これは同じことです。例えば、石油は昔の人類にとっての害です。畑を耕していたら、いきなり石油が噴き出したら田んぼは終わりです。

今の世の中で、石油が噴き出したら、「油田が当たった!」と大騒ぎになります。石油は財産です。大変なお金持ちになってしまいます。昔から石油はあったのですが、人類の知恵がそこまで発達していないので、石油を財産ととらえたりことができなかったのです。今出れば石油は財産です。

 それと同じで我々の身の回りにあるもの、例えばプルトニウムの再処理についてですが、今の人類には処理ができません。プルトニウムは害毒で、最悪の物だと思っています。だから、「原爆反対!」です。

 それを保存して何百年間動かないようにします。すると、科学が発達してプルトニウムは貴重な財産になるかもしれません。その時の人が使いこなせないだけで、千年先の人から見ればプルトニウムはお宝様かもしれません。

 海の水もそうです。海は津波がきて大変ですが、海の水から水素を取って、水素エネルギーで自動車が走ると無限のエネルギーが海にあるのです。また、海の中には無限の金があるのです。金を取り出す経費と出来上がった金では、経費の方が大きいのです。だから、金ができないのです。ところが、簡単に金が取れる方法が出来れば、海の水は大お宝様です。なんでもそうなのです。

 空気もそうです。炭酸ガスに利用できれば、大変なお宝になるのです。あくまでもその時の人間の知恵で、「良いか、悪いか」ということが決まるだけなのです。学問もそのようなものです。学問そのものには、良いも悪いもないのです。

れを使う人間の側に知恵があればよいのですが、馬鹿は学問につかまってしまい、そこから物を考えようとするのです。だから馬鹿になり、へんてこりんな早稲田大学社会学部出身者のような愚かな人間が出来てくるのです。早稲田大学社会科学部には要注意です!




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