(出発日:1996年7月24日、入山日:1996年7月25日、下山日:1996年7月27日、帰宅日:1996年7月28日)
それまでに奥穂には二度登ろうとしたが果たせないままだった。三度目の正直で登頂している。
このときのコースタイムと出発前から涸沢の手前までのことはメモ帳に長々と記載されていた。(以下の青字はメモ帳からの引用)
>先週の日曜に就職試験が終わってからは、出来が良くなかったとこもあって気分が沈んでしまい、すぐに山に行く気にはなれなかった。
月、火とそれこそ、ほとんど部屋を出ることもなく、ダラーと過ごしてしまった。
水曜日、ようやく準備を始めて一日がかりでパッキングしたものの、やはり気分が重い。
どこに行くか迷っていた。南ア方面に行ってみようか、いや、妙高にしようかなどと思ったが、結局、昨年十一と今年五月に“敗退”していた奥穂に向かうことにする。
それにしても蒸し暑い中、重いザックを担いでいくのは不快だ。近所のファミリーマートで買い物に寄ったときに忘れ物に気づいて、自宅に取りに戻ったりして余計に汗をかく。
新宿に着くと東口の切符売り場はいつものごとく人でいっぱいだ。その中をかき分けかき分け、出札口、改札口へと進む。
ホームに上がる前から登山者の姿をちらほら見かける。列車が混んでいないか不安だった。二十三時少し前に着いたが、自由席車両の乗車口の列もそれほど長くない。
列の後ろに着いて腰を下ろし、ビールとウイスキーを飲む。
それにしても暑い。団扇でせわしなくあおぐが汗が止まらない。
23:23に「アルプス」が入線。列の後ろの方だったが席は確保できた。少し空腹を覚えたので、買ってきたパンを頬張る。
耳栓をして目をつぶる。それでも斜め前の中年二人組の声がうるさい。一時ごろまでお喋りが耳につく。
途中、何度も目が覚めたが、夜行の車中にしてはよく眠れた方だ。
四時頃目が覚める。定刻に松本に着く。多くの山ヤが松本電鉄のホームに向かう。
いつもここで電鉄とバスの切符を購入する列ができて混むので、一旦、JRの改札の出て券売機で切符を買う。
再びホームに戻るが、電車にはもう席にほとんど空きが無かった。新聞紙を床に敷いて腰を下ろす。自販機で買った紅茶で、昨夜買ったピロシキパンを無理やり腹に流し込む。
新島々では(上高地行のバスがそのときの乗客数見合いで数台運行される)最後発のバスにしようと列の最後の方に並ぶが、目の前のバスは補助席まで詰め込み始めている。自分のところまで乗る番が回ってくるか微妙だったが、前に数人のところで一杯になり次の増発便に回されてラッキーだった。
沢渡までは意識があったが、釜トンネルを抜けたあたりまでうとうとする。
上高地には六時十分頃に到着。バスターミナルの登山案内所のあたりでいつものおじさんが盛んに登山カードの提出を呼び掛けている。
水筒に水を汲んで、六時半頃スタート。
>上高地 6:32
やはり寝不足でだるい。少し頭痛がする。けれど、朝日が差し込む樹林の中は爽やかで気持ちが良い。慌てずに行こうと思う。
明神の手前で「○○会」という腕章をつけた中高年の団体の長い列の後ろにつくが、この連中は後ろにいる登山者に全然道を譲ろうとしない。周りのことなどお構いなしの様子なのが腹立たしかった。スタート早々気分が悪かったが、脇にスペースができたタイミングで追い抜いた。
明神館 7:10 7:29
(「○○会」に進行を妨げられたが)それでも明神には思ったよりも早く着く。暑くなってきたので上に着ていた長ズボンを脱いで、Tシャツと短パンになる。
徳沢園 8:10 8:33
徳沢まで結構快調に歩く。寝不足ではあるが、ときに欠伸が出るくらい。
少々空腹感を覚える。もともと横尾で昼食にするつもりだったが、ここで買って来た巻きずしを食べてしまう。ニ十分程度休憩して横尾に向かう。
天気も良く、木々の緑も美しく爽快な気分だった。
そのときウォークマン(当時はカセットテープ)でマーラーの交響曲第3番を聴きながら歩いていた。第1楽章の主部は気持ちの良い夏山歩きにぴったりの音楽だ。
楽章後半で第2主題がヘ長調で再現するところで、なぜだかとても嬉しい気分になり思わず感極まってしまったことを思い出す。
横尾で9:10のラジオの気象通報で天気図を取りたいと思ったが間に合わなかった。十分ほど手前のところで荷を下ろして天気図を取ることにする。
ただ、電波の具合が良くない。チューニングに手間取り、放送の最初の方を聞けなかった。
再び横尾に向かって歩き始めるが、ふと、さきほど長ズボンを脱いだ時のことを思い返して急に不安になる。ポケットに自宅の鍵を入れてあったが、脱いだ時によく注意していなかった。
なんで、このタイミングで鍵のことが気になったのか。以前にも同じように落としたことがあったのかもしれない。
>横尾山荘 9:4? 10:20
山荘の前に着いて、早速長ズボンのポケットを確かめるが、予感が的中、鍵が無い。
徳沢園と明神館に電話して、落とし物の届がないか問合せたが、どちらも無いという。
とりあえず先に進んで、涸沢に着いてから再度確認することにする。すっかり気が重くなる。
結局、そのことで三十分以上時間が潰れてしまう。
その後鍵がどうなったか記載がないので不明だが、おそらく山行中に見つかったのではないかと思う。
その年は梅雨時の豪雨で横尾谷に入るところの橋が被害を受けていた。
橋脚はかろうじて流されてはいなかったが、どれも傾いてしまっていて橋桁がギクシャクと折曲がっている上を渡って行った。
横尾谷を進んでいくと左前方に屏風岩が現れる。その前に来て見上げると日差しが目に入り眩しい。逆光で岸壁が黒光りしているように見えた。
樹林の中を少し行くと、今回は高巻道へ誘導する標識があった。前回とはずいぶん様子が違っている。沢の水が岸に迫っていて、ところどころ木橋が渡してある。沢沿いに次第に高度を上げ、一時間ほどで本谷橋に着く。多くの人が休んでいる。
>本谷橋 11:20 11:35
もうシャリバテ気味で、それでも徳沢で食べたばかりだからと水を飲んだだけで無理して出発する。
>休憩 12:02 12:33
けれど、三十分も登ったくらいでもうバテバテになってしまい、後で食べようと思っていたにぎりめしに手を付ける。
そのうち寝不足と疲労もあって、座ってうつむいていたままコクリコクリとなってしまう。
背後に人の気配がして目が覚める。三人の若い男性グループが小休止していた。時計を見ると三十分も経っていたので、慌てて立ち上がりスタートする。
少し進むと、自分がにぎりめしを食べているときに追い抜いて行ったワンゲルの学生グループ六~七名が休んでいた。自分が先に行くとすぐ後に来たので道を譲って彼らの後をついていくことにした。自分にとっては少しアップペースだったが、先行者がいた方が張り合いがある。
途中でそのワンゲルの別グループに追いついて、そちらはいくらかペースが遅かった。そのグループを追い抜いて、先ほどのグループの後を追った。
>休憩 13:10 13:15?
けれど、彼らの方が若い分、歩くのが速い。引き離されてもうダメだと思いマイペースで上がっていくと、途中の木陰で彼らが休んでいた。一人かなりバテバテの部員がいて足を引っ張っているようだ。彼らを抜いてしばらく涸沢沿いを上る。
三十過ぎて学生と張りあってもしようがないが、当時はまだ若いつもりだった。
と、先の方に白い物が現れる。雪渓だ。この季節にまだこんなに雪がたくさんあるとは!
雪渓下部 13:40 13:45
「白馬の大雪渓だ」と初老の男性がつぶやいていたが、本当にそんな感じだった。ただし、ここは両岸が崖ではなくブナ林なので落石もなさそうだし雪も汚れていない。
延々と続くかと思われる白い斜面をえっちらおっちら上がる。
大きなコブを越えたところで、前方に思いがけなく涸沢ヒュッテが見える。
けれど、ここかが長かった。ヒュッテの手前の露岩で休憩を入れてから、改めて斜面を詰めたが足取りは重い。本当に、最後の十メートル、五メートル、三メートルがなかなか進めないという具合だ。
>涸沢ヒュッテ 14:00
(山行についての記載はここで終わっている)
涸沢ヒュッテに着いてテント泊の手続きを済ませてから、テラスで生ビールを飲んだ。
周囲にはたくさんのテントが張られていた。レンタルのテントもあると知って、次回は利用してみようかと思った。
おそらく、夜行で寝不足ということもあり、午後は昼寝をしていたと思う。
この山行中は全般に天候に恵まれた。夜中に目が覚めてテントから顔を出すと、満点の星空が広がっていたのではないか。
(2)に続く。