(出発日:1996年6月14日、入山日:1996年6月15日、下山~帰宅日:1996年6月16日)
 前橋にいた時は茅野までのアクセスが悪かったこともあり、八ヶ岳に何度か登りには行ったものの、いずれも時間が中途半端で麓のテン場までで引き返していた。
 平成八年の五月に上京した翌月、梅雨時ではあったがに久しぶりに登りに行っている。
 この山行についてはメモ帳に出発前から帰りのバスに乗るところまで長々と記載があった。(以下の青字が引用箇所)それだけでもかなりの文量なので二つに分けてアップしている。
>6/14
 昨日の天気予報で、明日の天気が良さそうなのはわかっていた。
 日中、図書館で勉強していても、気もそぞろで山行のことばかり気になった。とにかく、明日は日帰りでもいいから山を歩こうと思った。夕方、アパートに帰って天気予報を見ると、どうやら日曜日まで天気はもちそうだ。
 とりあえず、しばらく登っていなかった八ヶ岳あたりで決行することにした。
 装備についてはあれこれ迷う。ブランクの後で脚力や心肺機能が落ちていたので、無難な日帰り、または、小屋泊まりで荷物は軽くすることにした。
 二十二時頃、アパートを出る。途中、コンビニで明日の朝食昼食を買い、地下鉄で新宿に出る。
 金曜日の夜とあって人が多い。東口の人ごみをかきわけコンコースに入る。
 自分の予想では、梅雨のさ中で例年この頃、新宿発の夜行はそんなに混まないと踏んでいたが、ホームに上がってみると、まだ「アルプス」の発車までに一時間あるというのに結構な人だかりだ。そして、その多くが山ヤだ。特に学生のグループが目立つ。
 自分もその一人なのに「この陽気
(梅雨時なのに)にご苦労なことだ」と他人事のように思う。
 発車三十分前に入線してきた列車に乗り込むが、車内には立ち客も目立つ。
 定刻にホームを発車する。山手線や中央線の通勤電車のホームは帰宅のサラリーマンが多数いるのを車窓から見送る。
 車内は酒の入った学生たちが多いせいか、やけに騒然としている。よく言えば活気があるようでもあるが、山に用の無い者にとってはいい迷惑といったところか。

>6/15
 やたら学生が多かった「アルプス」の車内も、甲府、韮崎、小淵沢を過ぎるうちに降車が相次ぎガラガラになる。
 今のダイヤになって、小淵沢口はさぞかし不便になったと思うが、結構な降車があるのは意外だった。
(後続の夜行快速が廃止された後のよう)
 茅野には定刻の3:12に到着。やはり学生が多い。今の時期、こういうのが普通なのか。
 駅前の陸橋の上でシュラフに潜り込む。自分が到着する前よりシュラフ族がたくさんいた。

 当時のアルバムを見ると通路に登山者の寝袋が並んでいる写真があったが、照明があまり明るくなかったためシャッタースピードが遅く手ブレがひどい。
 鼻が詰まって不快だったが、五時少し前まで眠る。
 耳栓をしていたので、物音は気にならなかったが、あたりが明るくなり、学生たちが動き始めたのが耳栓越しに感じられる。
 起き上がり、持参したパンを駅前の自販機で買ったミルクティーで胃の中に流し込む。
 シュラフとマットを片付けてコインロッカーへと入れていこうとしたが、駅やその近くに見当たらない。しようがなくザックにパッキングしてしまう。
 五時半頃、バス乗り場に向かう。美濃戸口行のバス停の列につく。その正面にコインロッカーがあった。今さらザックから出すのが面倒だったし、大した荷物でもないからとそのまま持って行くことにした。切符を買い、少ししてバスが来る。 
 美濃戸口方面に向かう山ヤは学生を中心に乗車率が高かったので、窓際の席に座ってザックは膝の上に載せていたが、足元が狭いので窓の下の段になっているところに右足を載せていたら、重さのかかる右の太ももが痛くなってきた。おかげで少しも眠れなかった。
 六時過ぎ美濃戸口に着く。登山カードを書いていると、脇で小屋の若いスタッフが中年男性に展望山荘の宿泊をさかんに勧めている。

>美濃戸口        6:55
 6:55に出発。眠い、眠い。半年のブランク後はいつもこうだ。体調が整わない。
>美濃戸山荘  7:42  8:00
 眠くだるいまま美濃戸山荘に着く。出されたお茶と野沢菜を口にして、再び歩き出す。
 木々の緑は美しいのに、目には入るものの心の中には入ってこない。気分が重苦しい。

 この頃から夜行で睡眠不足のまま早朝から歩くことがキツく感じられるようになった。
 それまでは最初は足取りが重くても一時間ほど歩いてくると調子が上がってきたものだが、このときは一向に眠気が治まらなかった。
>休憩(露岩)  8:50  8:55
 そのうちやや気分が悪くなってきたので、途中で腰を下ろして軽く居眠りしたように思う。
 学生のワンゲルを追い抜いた頃から少し元気づく。やっと調子が上がってきたと思ってペースを上げようと思っていると、ポツリポツリとにわか雨がある。これくらいなら当分は大丈夫だろうと思っていたが、じきに本降りになり肌寒い。
>※降雨のため雨具着用
 白川原も過ぎ、行者小屋はもう間近だったので、半袖短パンで雨中を強行しようと思ったが、一昨年、高天原峠で無理して腰痛を起こしたのを思い出し、無理はやめて木立で雨を避けて雨具を着ける。
 当初、雨は全く想定していなかったので、雨具をザックの奥にしまってあり、シュラフが一番上にあるという実に不都合な状態で、パッキングし直ししていたら結構時間を食う。
 追い抜いてきた中年グループなどが先に行ってしまうし、もう後ろの方に引き離していた学生のワンゲルまで追いつかれそうになり、ようやく小屋に着く。  

>行者小屋 10:05 12:05
 雨はしばらく降り続いた。小屋の中で休憩させもらうが、玄関にストーブがあるのに火の気は無く寒い。弁当と食べ、本棚にあった漫画本を読んで時間を潰す。

 たしか、眠気が抜けなかったのでそこで少し眠っていったように思う。小一時間ほどだったか、目が覚めるとすいぶん気分がすっきりしたように記憶している。
 昼近くになり、外が少し明るくなってくる。雨も小降りになり、ガスも上がってきたため正午頃に小屋を出る。
 時おり晴れ間も出てくる。その先の急登では暑くなると思い、雨具を脱ぐことにするが、またガスが出たり雨が降り出した時のことも考え上半身だけ脱いだ。
 予感どおり、ガスが再び濃くなる。遠くで雷鳴がしたような気がしてラジオを点ける。しばらく聴いてみるが雑音は入らない。とりあえず点けたままにして登り続ける。
 文三郎道の鉄製の階段は段差が大きいのでずっと昇っていくのは本当につらい。
  途中で男性の声で「オーイ」と呼びかけられた気がした。けれどガスで声のしたあたりに人がいるのかどうかもわからない。空耳だったのか。
 阿弥陀岳への登山道との出合の手前から風が強くなる。出合に辿り着いたところで再び上半身も雨具を着ていると、上半身Tシャツの男性が追い抜いて行った。ずいぶん元気なものだと思う。それに引き換え今の自分はずいぶん体力を落としてしまったものだとみじめな気分になる。
 岩場に差し掛かるところで再び「オーイ」という声がした。今度も声の主がどこにいるのかわからなかった。ちょっと不気味だった。
 岩場は好きではないが、一度登ったことはあったせいかそれほど難は無かった。
 ようやく着いた山頂はガスの中だった。ときおりガスが切れて麓の行者小屋が見えたりするが、カメラを構えるとすぐにガスの中に消えてしまう。
 さきほど自分を追い抜いて行った単独行の男性が昼食を取っていた。話しかけると、行者小屋の前でテントを張っているので明日もまた登りに来るそうだ。元気なものだ。
 赤岳頂上山荘には十四時頃に入って宿泊手続きを済ませる。布団はお好きなところ結構ですと言われたので、今日はもう登ってくる人もそんなにいないだろうと思っていたが、悪天候の中、続々と登山者が到着しているようだった。
 昼寝をして十六時頃起き、食堂へ行く。
(ラジオの)気象通報で天気図を採る取る。今の時期の天気図は等圧線も少なく書く張り合いがあまりない。
 天気図を取りながら、ウィスキーを烏龍茶で割って飲んでいたが、酔いが回ってきたら気分が悪くなる。夕食に向けて食欲増進のつもりがすっかり逆効果になった。
 そにしても寒い。けれど、食堂の温度計は二十度を指している。十分厚着もしているのにどうしたことだろう。あまり山を登らないでいたから体質がガラリと変わってしまったのか。

(2)に続く