(出発~帰宅日:1995年9月頃)

 平成七年の夏季の一週間休暇は職場の人繰りの都合で九月になった。
 三年目の縦走の行程は、例によって入山口は折立、下山口は新穂高温泉としたが、最初の年は雲ノ平、二回目の前年は高天原温泉を経由したので、今度は太郎平から南側へ回り込んで黒部五郎に登ることにした。

[出発、入山初日]
 高崎からは急行「能登」かと寝台特急「北陸」で富山に移動したと思う。「北陸」であれば、このときも車内のシャワールームを使ったと思う。
 時期的に富山から折立直通のバスは運転を終了してたので、富山地鉄で有峰口に行きそこでバスに乗換えたはずである。
 入山初日の天気は良くなかった。太郎平まではずっとガスっていて小雨にも降られた。たしか、太郎平に向かう途中でカメラのフィルム交換をした際に、取り出したフィルムを紛失してしまったように思う。

 下山して自宅に帰って荷物を整理している時に見当たらないことに気がついた。あのときはガスって小雨にも降られながらだったので、メガネも曇って手元をよく確認できていなかったかもしれない。前の山行(薬師岳に行ったとき?)で中途半端に使った残りだったので、数枚撮ったところで交換となったと思うが、何が写っていただろう。
 テント泊の準備をしていったが、天気が悪かったので太郎平小屋に泊まることにした。すでに夏山シーズンは終わって小屋は空いていたので、二年前のように一つの布団に二人寝るということは無かった。

[入山二日目]
 翌日も朝から雨が降っていて止む様子もない。この中を歩くのはさすがに気が重い。
 黒部五郎岳までの行程は長いが、翌日は天候が回復することが予想されたので、途中ビバーク覚悟で出発することにした。
 このときは週間予報が概して良くなかったので、雨対策グッズをいろいろ準備していった。レインウェアは蒸れるのと着脱が面倒なのであまり着たくはなかったが、前の年にレインウェアのパンツを履かずに下半身を雨で冷やして腰を痛めたこともあり、であれば被るだけでいいポンチョならどうだろう試してみることにした。ポンチョなら腰のあたりはそれほど濡らさずに済むし、レインウェアを着ていても靴が濡れるのは同じだし、ルート上には危険なやせ尾根や岩場は無さそうだったので多少風にあおられても問題も無い。
 それから雨の中でも小休止して行動食を取れるようにカラダをすっぽり覆う大型のビニル袋を持って来た。そんなうまいこといくかどうかわからなかったが、まずは歩き出して考えようと悪天候をついて出発した。
  しかし、風雨ともに強いうえにガスって視界もほとんど効かない。小屋から一つ目のピークのところで、用意しておいた大きなビニール袋を被ってみようとするが思うようにいかない。これでは袋の中で行動食を食べたり、地図を確認するのは難しそうだ。この悪天候の中を進んでいく自信が揺らいで気弱になる。初めて歩くルートなので、この先どんな状況になるか読めず不安だった。やっぱり小屋に引き返して停滞することにした。
 連泊の手続きをした後で食堂か談話室だったかで過ごす。元より停滞を決めていた同宿の人が管理人の五十嶋さんと記念写真を撮るというのでついでに自分も便乗した。

[入山三日目]
 三日目の朝になってやっと天気が回復した。ただ上空に寒気が入ってかなり冷え込んだ。小屋から歩き始めて少し行ったところで、登山道の水たまりに氷が張っていた。

 朝のうちこそ寒かったが、前日までとはうって変わって日差しが強く、日中はかなり気温も上がった。
 当日の宿泊地の黒部五郎小屋のキャンプ場まではコースタイム八時間の長丁場だ。北ノ俣岳やその先のいくつかのピークを越えていくのでアップダウンも多いが順調に行程をこなした。だんだん黒部五郎岳が目の前に大きくなってくる。
 そして最後には、手前の乗越から黒部五郎岳山頂まで標高差が三百メートル以上の登りが待っている。心して取りついたがやはりきつかった。
 昼ごろには山頂に到着した。九月の半ばを過ぎて登山者の姿は少なかった。天気も良かったし時間にいくらか余裕があったので、小一時間ほど岩の上でTシャツを脱いで日光浴をしていった。しかしこれが良からぬことになる。
 休憩後に下山を開始し、カールの中を下っていく。草地の中に大きな岩がごろごろしていて、その中にあった十字に裂けた巨岩が目を引く。 

 カールの先で樹林帯に入るが、十分休憩したはずなのになんとなく身体が重くてペースが上がらない。そのうち変な寒気がしてくるが、日陰に入って汗が冷えたのだろうと最初は思っていた。けれど、どうもそうではないような嫌な予感がしてくる。
 山小屋に着いてキャンプ場利用を手続きをしてテン場に行くと、先行していた学生の団体がすでに幕営していた。その日、幕営していたのは彼らと自分だけだった。
 キャンプ場から見える笠が岳は左手になだらかに続くシルエットが秩父岩ですぱっと切れ落ちる特徴的な姿だったが、当地でそれを眺めた記憶はほとんどない。それだけ体調の異変にテンパっていたのかもしれない。
 体調がだんだん悪くなっているのを感じていたので急いで設営した。あとは着込めるだけ着込んでチョコや行動食の菓子類、ビタミン剤を口に放り込んでシュラフに包まった。

 それにしても、なんでこんなことになったのだろうと思う。黒部五郎岳の山頂で無防備に強い日差しに当たったのがいけなかったか。
 どこに下るにも二日はかかるところで寝込んでしまったらにっちもさっちもいかない。やばいことになったと気が気でない。初めのうちは悪寒がしてシュラフの中でガタガタ震えていたがいつの間にか眠っていた。
 それからどれくらい経ったか、目が覚めると夜になっていた。身体がホカホカしていて少し汗をかいていたように思う。悪寒を感じることはなくなり復調したようでほっとする。テントから顔を出すと高く昇った月が雲間から覗いていた。

[入山四日目]
 翌朝、疲労はあったが風邪のような症状は無かった。体調も特段悪いということもなく、まずは一安心である。
 テン場を出発する。のっけから樹林の中の急登でしんどかった。ひと登りして振り返ると、黒部五郎の大きなカールが目の前に広がっていた。 
 三俣山荘まではアルバムの写真の感じだと、巻道でショートカットしたらしい。朝のうちは日も差していたかが、日中はずっと曇っていた。景色もぱっとしなくて張り合いがない。
 三俣山荘のテン場に着く。黒部五郎のテン場には学生がいたが、ここでは自分しか設営していなかった。
 たぶん、ここでは毎度のごとく食堂でカレーを食べていくが、その時も同様だった。食堂では誰の作品かわからなかったが弦楽合奏の曲が流れていた。管理人の趣味だろうか。
 テントを設営したときは雨はまだ降っていなかったが空は一面に雲が広がっており、目の前の鷲羽岳は山頂まで見えていたものの登る気になれなかった。

 夕方になってもテン場に登山者が来ることはなく、幕営していたのは自分だけだった。天気も良くないこともあり心細かった。
 夜になって雨が本降りになる。風雨が強く一晩中テントがかなりバタついた。

[入山五日目]
 翌朝は雨の中で憂鬱な撤収となった。装備を濡らしたくなかったので、テン場の隅にあった冬季小屋の中でパッキングすることにした。
 けれど、小屋の中は荒れていて物を持ち込むのにも具合が良くなかった。足元は木片や石などが転がっていて、避難小屋ということだが、これではシュラフを広げて寝ることは無理なようだ。
 雨の中を出発する。双六小屋までは天候も悪いので無難な巻道のコースにした。このときは三俣蓮華岳にも寄っていない。

 それにしてもレインウェアを着て歩くのは暑いし蒸れるので鬱陶しい。眼鏡も雨粒がついて前が見づらい。尾根伝いよりは平坦な道だが、途中、三か所ほど急な登りがあって雨の中なのでとても恨めしかったが、ここは我慢して登るしかない。
 目を楽しませてくれるような眺望もなく、雨降りにうんざりして双六小屋に着く。まずは、中に入って休憩した。

 縦走の時は新穂高温泉に下る前日にここで必ずテント泊していたが、雨の中で設営するのはかなり煩わしい。翌日も雨だったら撤収するときもさらに面倒だ。

 雨の中を歩き続けるは嫌だったが、翌日も天気が悪かった場合のことを考えると少しでも下っておく方が得策だと思われた。まだ昼頃だったので当地には泊まらずに鏡平まで下りることにした。
 鏡平には休憩で何度か立ち寄ったことはあったが泊まるのは初めてだった。このときは新しい宿泊棟の方に案内された。
 残りの食糧が少なかったのか、珍しく晩飯、朝飯ともに自炊しないで小屋の食事にした。
 食事のとき、写真撮影が目的のグループとテーブルが一緒になりいろいろおしゃべりした。その晩も雨が降る続いていた。

[入山六日目・下山日]
 翌朝、目が覚めたときは雨が止んでガスっていたが、雲が上がって槍ヶ岳の稜線が見えくると今度は雨が降り出した。
 新穂高への下山についてはほとんど記憶がないが、アルバムを見たら途中から雨も上がって晴れていたようである。
 九月だったのですでに新穂高キャンプ場の営業は終わっていたが、いつものようにキャンプ場の中を流れる小川の脇に設営した。
 下山途中だったかキャンプ場でだったかは忘れたが、学生くらいの青年と一緒になり、その晩、深山荘に一緒に風呂に入りにいったように思う。
 キャンプ場で撮った写真には自分のテントのすぐ隣に他の人が張ったテントが映っている。利用者が少ないのにわざわざこんなことはしないので、その青年のものだと思う。

[帰宅日]
 翌朝は比較的早い時刻(八時くらい)のバスに乗っていると思う。その時は雨が降っていた。青年とは新穂高で別れている。
 そのときのアルバムの最後はホームに止まっている特急「あさま」の写真だった。おそらく、富山から北陸本線で移動して直江津で撮ったものだろう。
 当時は安房トンネルがまだ開通していなかったので、松本に出るのも今より時間がかかった。
 九月になると松本直行バスの運転が無かったため、あえて高山経由で帰ることにしたようだ。

 

 なお、この山行のアルバムをしばらく前に見ていた覚えがあり、それに基づいた記述もあるが、どうしたことか行方不明になっている。このため、日付も不明になっているが、見つかった後で改めて加筆することになると思う。