(出発~帰宅日:1995年8月頃)

 折立から新穂高温泉まで縦走したときに、太郎平小屋の前にゆったり広がっている姿を目にして、いずれ機会があれば登りたいと思っていた。
 いつもの縦走ルートから外れていて行程に組み込みづらかったので、夏山シーズンにこの山だけ登りに行ってみることにした。
 登りにいったのは平成七年の八月だったはずだが、この時のアルバムも行方不明のため時期がはっきりしない。火打山の後に行ったように記憶しているが、そうだとすると翌週か翌々週の土日となる。日程はその前後の金曜日か月曜日に有給休暇を一日追加して三連休にしていたようである。
 高崎から寝台特急「北陸」か急行「能登」で富山に行き、そこから富山地鉄で有峰口に移動し、バスで登山口の折立に入っていると思う。
 盛んに山歩きをしていたこの頃が体力が一番あったと思う。テント泊・自炊でそれなりにザックは重たかったが、ガイドマップのコースタイム以内で歩けていた。
 十三時過ぎには太郎平のキャンプ場に着いていたのではないかと思う。その日はまだ天気は悪くなかったと思う。
 翌日、肝心の薬師岳登山の日は朝から空は曇って天気はいまいちだった。ちょっと残念な天候だったが、山肌には何か高山植物が咲いていていたような気もする。
 歩きだした頃からポツポツ雨が降っていたように思うが、登っていくにしたがい周囲がガスってきて、そのうち雨も本降りになってきた。途中の薬師岳山荘の脇を通ったときにはかなりガスも濃くなっていたように思う。避難小屋の前を通って行ったと思うがが、そのときどんなだったかよく覚えていない。
 天気は悪かったが山頂に向かう登山者は少なくなかった。何の眺望も無い中を、ひたすら列になって登っていった。
 ようやく着いた山頂では風雨で散々だった。祠があった気がするが、ゆっくりする余裕もなく下山を始めたと思う。
 下山している間に雨は上がってきた。昼過ぎにテン場に戻ってきたときはまだ曇り空だった。
 それから撤収して折立に下山し始めたが、そのうち日が差して来たと思う。これなら薬師岳山荘に泊まって明日登ても良かったと思ったのではないか。
 有峰口駅行のバスは十六時頃が最終便だったように思う。折立に下山したタイミングでは十分間に合ったが、その後どうするか計画が無かった。有峰口に下る途中に温泉旅館があり山行後に日帰り温泉で寄ろうと思っていたが、泊まることまでは考えていなかった。夏休みシーズンなので予約無しで泊れるかどうかもわからない。富山まで移動して夜行に乗るにしても高崎に着くのは午前二~三時頃で中途半端である。
 バス停の近くには草地の広場があってキャンプ場のようだった。まだ休暇を一日残していたのでそこで一泊していくことにした。風呂は無かったので代わりに売店の脇の水道でタオルを濡らして身体を拭いた。
 その日、自分の他にキャンプ場を利用していたのは一グループだけだったと思う。数人のグループで登山者ではなさげだった。彼からは少し離れたところでのんびりすることにした。
 草地だったが蚊などの肌を刺すような虫もいないようで快適だと初めは呑気に考えていた。ところが、そのうち腕や脚のあちこちが痒くなってくる。
 あたりに小さな虫が飛んでいたように思うが気にも留めていなかった。けれど、どうやらそれに刺されていたらしい。見た目、そんなに腫れているわけでもなかったので、すぐに治まるだろうと思っていたが、だんだん痒みも強くなってくる。結局、痒みが治まるのにそれから一週間ほどかかった。あのとき刺された虫は何だったんだろうと思う。
 夜になると、数人のグループが灯りを点けて飲み食いしているようで、物音や声がちょっと耳障りだったかもしれない。
 翌日も皮肉なことに良い天気だった。九時頃のバスで有峰口駅に下った。
 有峰口から富山に地鉄に乗って行った。途中、田んぼの中を走っていると、車両の窓に大量の水がバッと吹きかかった。何かと思う。窓は閉め切ってあったのでこちらはなんともなかったが、農薬か何かを散布していたのか。
 昼頃に富山に到着する。そこから北陸本線に乗り換えたが、折よく長野行の臨時特急に乗り合わせた。
 自由席もそれほど混んでいなかった。車内ではビールでも飲んで駅弁を食べていたか。途中から車窓から夏空の下でキラキラ輝く日本海が望めた。
 山行はイマイチだったが、長野までの列車旅はとても快適だった。 

 長野から特急「あさま」に乗り換えるためホームで待っているとき、午後の日差しがきつかったことを覚えている。