(出発日:1995年8月11日、入山日:1995年8月12日、下山~帰宅日:1995年8月13日)

 職場の夏休みは担当者が交替で取っていた。前年は八月に取得できたが、その年は担当の人繰りの都合で自分の夏休みは九月になった。
 そのため、行程の長い縦走は九月に行くことして、八月は日帰りや山中一泊の山行をすることにしたが、さて、どこに行こうか。
 火打山には前年とその年の六月に登ろうとしたものの、天候に恵まれなかったり残雪に阻まれたりして登頂できずにいたので、今度こそ山頂に立ってみたいと思っていたところだった。
 それまでは笹ヶ峰の登山口から入山していたが、このときは燕温泉から登ることにした。
 いつもの急行「能登」だと車内で眠れる時間も中途半端で睡眠不足になるので、前の晩のうちに妙高高原に着いて駅カンすることも考えたが、なんとなく待合室で駅カンしづらい印象がありちょっと躊躇した。
 では、いっそのこと燕温泉まで入ってしまってはどうかと考えた。燕温泉から少し上がったあたりは広場のようになっていて、夏ならそこで一晩シュラフで寝ることもできるだろうと楽観的に考えていた。
 最終の特急「あさま」に乗って長野に着いたのは〇時近く。そこから普通列車の接続があって妙高高原には一時頃に着いていたようだ。
 駅前からタクシーで燕温泉に移動し、温泉街を抜けた先の遊歩道から例の広場に歩いていく。
 途中に岩風呂風の足湯があったと思うが、夜中なのに温泉客が入りに来ていたように思う。
 そこを通り過ぎて、広場の奥の人目につきにくいところにテントマットを敷いてシュラフに潜った。
 その晩は満月のようで、仰向けになると真上に昇っていた。雲の無い夜空だった。(注)

 山の中なので野生動物のことも気にはなったが、最近のようにクマなどが人里に出てきてニュースになることもなかったせいか楽観的でいられた。
 翌朝、空が明るくなり目が覚ますと白んだ空が広がっていた。
 一晩を過ごすことには特に問題無かったが、肝心なことを考慮していなかった。トイレである。
 広場には公衆トイレがありそうで無かった。仕方なく茂みに入って・・・。
 その後でザックにパッキングし直して出発した。
 このときのアルバムなどが見つからないので、以降は記憶があやふやなところが多い。
 以前、下山で通った大倉谷のルートを上って行く。よく覚えていないが、大倉池のところから外輪山の尾根に上がって黒沢池ヒュッテに着いたと思う。
 テン場に設営をしてから、いよいよ火打山に向かう。天気は良かったと思う。残雪に悩まされることもなく順調に先に進んだ。
 おそらく高谷池ヒュッテで一休みしただろう。その先の天狗の庭から上がっていったところにサクラソウの群落ががあった。岩の間のそここにピンク色の花を咲かせていて見頃だった。
 その先も緩やかな尾根が続いたが、最後、勾配が急になりひと登りして山頂に着いた。周囲の眺望についてはあまり記憶が無い。午後になってガスがかかり出していたか。
 影火打まで行かずに引き返している。その先の焼山は、当時、目立った火山活動はなかったが入山禁止になっていた。
 夕方、黒沢池ヒュッテのテン場に戻ってくる。その日は自分の他に何張りかテントがあった。

 晩飯を自炊しているが、そのあたりの記憶は無い。

 翌日は笹ヶ峰に下山しただろうか。折悪しくバスが発ってしまった後で、次発までかなり時間が空いていて、その場にいても手持ち無沙汰だったので途中のバス停まで歩いて下ったことがあったが、日差しが強くて暑かった記憶があるのでこの時のことかもしれない。
 杉の原スキー場のあたりまで歩いていき、そこからバスに乗って妙高高原駅に下った。
 当時、駅の周辺に共同浴場が二カ所あることを知って、そのうちの一つに入りにいった。通りから細い路地に入ったところにあったように思う。浴室には何人も入浴客がいて、少し混んでいたような記憶がある。
 また来た時にもう一つの共同浴場に入ってみようと思っていたが、機会が無いままになっていた。
 先日、当地の共同浴場についてネットで確認すると、現在は一か所だけになっていた。大湯という浴場が今でも営業している。白っぽいコンクリート造りの外観で、山行の時に寄った共同浴場はたしかそんな感じだった。木造の玄関は記憶と違っていたが、これは後に増築されたもののようである。増築前の画像を見ると、ああ、こんな玄関だったという気がした。
 あのときは汗を流した後、駅に戻り前橋に帰っている。 
 

(注)平成七年八月の月齢をネットで確認すると、八月十一日(金)が満月である。山行の日時をアルバムなどで確認できていないが、この日を出発日とすることにした。