(出発日:1995年7月22日、入山~帰宅日:1995年7月23日)

 最初に使っていた夏靴の靴ひもを掛ける金具の一つが取れてしまった。
 まだしばらく履けると思っていたが、二年ほどの間にこの靴で何度も登りに行っていたので、そろそろ買い替え時ということのようだ。

 隣町の高崎にICI石井スポーツがあったが、品揃えが多い方がいいだろうと、わざわざ東京の大久保にあった本店まで行って新調した。
 その後もすぐに山に行くつもりだったが、ぶっつけで新しい靴で登るのも不安だったので、足慣らしに志賀高原から草津のあたりをハイキングしてみることにした。
 その時のアルバムは二冊あり、使い捨てカメラと二眼レフカメラで撮ったものがそれぞれあった。どうやら使い捨てカメラを撮り切ってから二眼レフで続きを撮っているようである。
 使い捨てカメラはパノラマ版で長野電鉄の湯田中駅構内を撮った写真から始まっていた。時計が七時二十分頃を指している。ということは、前夜発で翌朝に湯田中に着いていることになる。

 おそらく新宿から急行「アルプス」で松本に行き、そこから急行「ちくま」での早朝の長野に着いて、長野電鉄に乗って湯田中に来たのではないか。前橋を朝に発つと行動時間が短くなるので、そうしたのだろうが試し履きのためになんともご苦労なことである。(長野に行くには上野から急行「能登」に乗る方が手っ取り早いが、長野の到着時刻が早すぎた(午前三時過ぎ))
 朝から良い天気だった。湯田中からバスに乗り硯川で降りてリフトに乗っているようだ。リフトに乗って横手山に上がる途中の写真があった。横手山頂の展望台には観光客がたくさんいた。

 その後の写真が少ないうえに記憶もはっきりしないが、渋峠にリフトで下ったのではないかと思う。
 当時の地形図には志賀高原道路の渋峠から山田峠あたりに、稜線通しに登山道が記されていたように思う。それを見てササ原の広がるなだらかな稜線をのんびり歩けそうな気がした。
 ところが、渋峠に下ってみるとあたりのササはまるで刈り払われておらず、道がどこにあるのか全くわからない。近年、ここを歩く登山者がいないことを物語っているようだった。
 とりあえず車道を歩いていくことにして、どこかで登山道が見つかればと期待したが、その先にも痕跡すら見つけられなかった。
 写真もどこで撮ったかわからないものが多く、どこを歩いたのか特定できないが、おそらく志賀草津道路の群馬側を歩いていったと思われる。
 その後で草津白根山に登っている。渋峠からは七~八キロくらいあるので、車道を歩くのが煩わしくになって途中でタイミングよく来たバスに乗ってしまったかもしれない。
 白根火山バス停のあたりから国道の南側にある逢ノ峰に先に登ったか。その先の本白根山までは行っていないように思う。
 その後で国道を挟んで反対側の湯釜を見に火口壁を登っていくと、大きな火口の中に図鑑などでお馴染みのエメラルドグリーンの火口湖があった。ただ、その時は水の色が心なしか白っぽかった印象がある。 
 その頃は火山活動も落ち着いていたが、少し歩いて行ったところに立ち入り禁止の立て札があって、お鉢巡りはできなかった。山や火口湖に特に異変は無かったからちょっとくらい大丈夫だろうと、先の方へ歩いて行ってみたが、火口湖の周りは風化した火山灰と石ころばかりで荒涼としていて、これといって目を惹くものは無かったと思う。
 湯釜からレストハウスの方に戻ってから芳ヶ平に向かったと思う。
 もう一つのアルバムの方は草原の中にある砂地の小山を撮っている写真で始まっていた。近づいて撮った写真は、頂上に大きな岩かゴロゴロしていて、その中に鳥居と祠があった。これはいったいどこだろうと思う。地形図を見ても神社のマークは見当たらない。レストハウスの裏から芳が平に通じる道が分岐している。そこを入った先に1981.8mの三角点があり、そこが小さく盛り上がった地形のようにも思えなくもない。もしかすると、これが鳥居のあったところかもしれない。その道から芳ヶ平に下ったとすれば辻褄も合う。そのうち確かめる機会があればとも思うが、現在、付近は噴火活動にともなう入山規制のため立ち入れないそうである。

 今回の山行で一番の目的は芳ヶ平に行ってみることだったように思う。いつのことだったか湿原や池塘が点在していて美しいところだとういうのを何かで知った。それほど知られていないので静かであるというのにも惹かれた。たしかに、芳ヶ平ヒュッテに向かう途中、あまり人を見かけなかったように思う。道は木の少ない草原の中に続いていた

 ヒュッテから先に進むと湿原や池塘か現れた。人影は無く閑散としていた。花の時期は過ぎていたのか白いワタスゲの穂のようなものが見られただけ、あたりを埋め尽くす草の葉の緑に塗り込められて彩に乏しかった。あまり目を楽しませるものもなく、カンカン照りつける太陽に追い立てられるようだった。

 そのときはヒュッテには寄らなかった。少し離れたところにテーブルやベンチなどが置かれていてキャンプ場になっていた。誰もいなかったので休憩がてらベンチで日光浴をしていった。標高が高いとはいえ、日差しが強くて少々暑かった。

 その後、大沢川の南側の登山道を草津温泉の方へ下った。樹林の中の道は草も刈り払われていて歩きづらいところは無かったように思う。途中で登山道の先に何かがいる気配がした。草むらからカモシカがこちらを窺っているようだった。近づくと逃げて行ってしまった。
 その先の林道から志賀草津道路に合流して、草津温泉スキー場の脇に下ってくると、アスファルトの照り返しが強かった。そこから少し先日行ったところにある西の河原露天風呂に寄っていった。
 歩いているとき少し窮屈で痛みも感じたが、履き慣らすまでの辛抱だと我慢していた。
 多少の靴擦れはしようがないと思っていたが、風呂に入る時に靴下を脱いでみると足が傷だらけになっていて驚いた。

 

 新調した靴はイタリアのカルモントとかいったメーカーのものだった。欧米人の足形に合わせて作られているため、平べったい日本人の足には向かないというのを後日知った。

 温泉の泉質は強酸性で傷口にしみたが、その分、治りも早くなるというので我慢して入った。
 草津温泉からバスに乗って、長野原(現在の長野原草津口)に下る。
 駅近くの吾妻川沿いの食堂でキノコと山かけにうどんが付いた定食を食べた。
 その後で長野原から特急(吾妻線内は普通列車だったか)に乗って帰っている。