(出発日:1995年5月26日、入山日:1995年5月27日、下山~帰宅日:1995年5月28日)

 前年の八月に大雪渓から白馬岳に登っているが、再び同じルートで登りに行っている。
 今度は白馬山荘に泊まろうと考えていたようだが、残雪期ということもあり念のためテント泊・自炊の装備を持って出発した。
 高崎から最終の特急「あさま」に乗り、篠ノ井で急行「ちくま」に乗り換え午前一時頃松本に着いた。改札を出るとどうも様子が変である。コンコースには駅カンしている登山者の姿が無かった。
 どうしたんだろうと思っていると、駅員が寄って来て「駅には泊まれません。閉めるので外に出てください」と言われた。三月に地下鉄サリン事件があった影響で駅構内は終電後に立ち入れなくなっていたのだ。
 こちらの困った様子を察してか、西口を出たところであればいいと言ってくれた。
 西口にはどうやって移動したのだろう。ネットで検索して以前の松本駅の様子を確認すると、駅の東西を結ぶ自由通路(現在のものとは異なる)があったようである。
 まだ今の駅ビルに改築される前で、西口には簡素な木造の駅舎があった。その軒下の狭いスペースにどうにか横になれる感じだった。
 駅前は現在のようなロータリーは整備されていなかった。そのときの駅前の様子は全然覚えていないが、それほど広くない路地が前を通っているだけだったように思う。そこに終電後の客を拾いにタクシーがひっきりなしにやって、そのたびにライトを浴びせられるので眠るどころではなかった。しばらく様子を見てタクシー待ちの客がいなくなった頃に横になったのではないかと思う。
 そんなわけでゆっくり眠れたわけではなかったが、朝一の急行「アルプス」が到着する四時頃までなんとかそこで過ごしたようだ。
 五時半頃に白馬に着くが、時期的に猿倉に行くバスは運行されていなかっため、タクシーに乗って行った。(3,180円かかったようだ)
 猿倉山荘もまだ本格的に営業していなかった。(売店のみの営業だったか)

 山荘を出発して林道をしばらく歩いて行くと白馬岳が目の前に現れる。この山の由来となった雪形はどれだろうと山肌を探してほどなく見つけるが、あまり馬という感じがしない。
 その先には夏でも沢の水が林道を横切って流れているが、そのときは水量が多かったので残雪の上をトラバースしたが、アルバムには「少し嫌なところ」とコメントがある。スリップや踏み抜きが不安だったのだろうか。
 まだ残雪が多く白馬尻の手前から雪上歩きとなる。踏み跡をたどっていくと白馬尻は通らずに大雪渓に出てしまう。
 夏のシーズンほどではないが、視界の先に登山者がぽつぽつ続いていてスキーヤーが多かった。

 歩き始めて間もなくのことだった。数百メートル先で左の斜面から登山者の列に向かって落石が転がっていくではないか。声をかけようにも遠すぎて自分にはどうしようもできなかった。人々はなかなか気がつかず、石が列を横切るときになって蟻が慌てて散らばっていくようだった。幸いけがをした人はいなかったようだが、見ているこちらがはらはらした。
 雪渓の中は石が転がる音がしないので気がつくのが遅れると、登山雑誌かなにかで読んだことがあったが、まさにそのとおりだと思った。歩いていくと雪渓の上のあちこちに落石が散らばっており両脇の岩壁を気にしながら上った。(注)

 前記のとおりテントや自炊道具も担いで行ったのでザックはそれなりに重かった。そのときはプラスチックブーツを履いて登っている。二月に谷川岳に登る時に革の冬靴にワンタッチアイゼンがうまく嵌らなかったが、そのこともあってのことか。

 途中から靴擦れで足が痛くなる。踵だったろうか。絆創膏で応急処置はしたと思うが、山行中ずっと痛くてしかたなかった。

 雪渓を歩き始めたときは日差しもあって暑いだろうと思ったが、吹き降ろしてくる風は冷たい。上半身はTシャツだったが日が陰ると一気に体温を奪われ体力を消耗した。

 途中で昼食にするが、雪渓の上は思った以上に寒く、持ってきた弁当も白飯が冷えていたのでガタガタ震えながら食べた。

 雪渓の斜度が一番キツくなったあたりで一時的に晴れ間も出て、登っているととても暑かったがそれも束の間で、その後はずっと曇り空とガスの中だったように思う。

 葱平あたりまで来た時だったか村営頂上宿舎の屋根が見えてくる。けれど、登れど登れどなかなか頂上宿舎は近づいてこない。

 曇っているうえにあたりもガスってきて気温もぐんと下がる。夏とは違って雪渓が白馬山荘の下あたりまで続いていて、靴擦れが痛かったこともあり、ずっと雪の斜面を上るのは本当に辛かった。
 頂上宿舎の前に着いたのは十六時くらいだったかと思う。持っていた温度計を見たら気温は零度くらいだった。その頃にはかなりヘロヘロになっていて、もう白馬山荘まで歩く元気もなかった。
 頂上宿舎はまだ営業前で誰もいなかった。もうここでよかろうとテン場では無く小屋の前の雪の消えていた平坦なスペースに設営することにした。そのときは自分一人しかいなかった。

 その頃には風が強くなってくる。ペグを打って固定はしたが飛ばされやしないかちょっと不安だった。
 夕方、うす暗くなり始めた頃、外で足音がして誰が来たようだった。顔を出すと二十代くらいの若い男性がいて「隣に張ってもいいですか」と話しかけてきた。一人でなくて良かったと思う。風がかなり強くなっていて、男性が設営に苦労しているようだったので、外に出て手伝った。
 その日はガスっていて展望は期待できなかったので、夕飯を食べるとさっさと寝てしまったが、夜行で睡眠不足のうえに長い雪渓の登りで疲れていたはずなのになかなか寝付けなかった。
 その晩は夜通し風が強かった。テントが風に煽られて終始バタバタ音を立てていたが、それに混じって登山者の足音が聞こえた気がした。
 「こんな時間に?」「ヘッドランプを点けている様子もないし」と思いながらも、また外で誰かが設営に苦労しているかもしれないと思いテントから顔を出してみるが誰もいない・・・、そんなことが二、三度あった。
 その後も空耳だと思いながらも、足音が聞こえる気がしてしかたがなかった。
 遭難した登山者の霊がさ迷っていたりしないか?などと変なことが思い浮かんでちょっと気味が悪かった。
 そんなわけでなかなか気分が落ち着かなかったが、それでもいつしか眠っていた。
 ・・・ヘリコプターが飛んで来る音で目が覚めた。翌朝は晴れて良い天気だった。
 外から誰かに声をかけられた。頂上宿舎のスタッフが小屋開きの準備で資材を上げにきたようである。テントをすぐ撤去するように言われた。
 前日の疲労も残っていたのでもう少し寝坊したかったが、追い立てらるようにあたふたと撤収を始める。隣のテントの青年も同様だった。フライは使わなかったが、一晩中、風が強かったのでテントは全く結露しておらず、その分、片付けるのは楽だったが。

 山荘の前からは遠くの山影が雲海の上に島のように浮かんでいるのが望めた。南には八ヶ岳とその脇に霞んだ富士山、その左に奥秩父の山々。その左手前には浅間山が見えた。近くには残雪でまだら模様の杓子、鑓ヶ岳が連なっている。ここもいつか縦走したいと思った。
 撤収後、近くにザックをデポして昨晩一緒だった青年と山頂に向かった。彼は信州大のOBで山スキーをしに来ていた。

 山頂に着く。日本海が見えるが、上空は薄雲が広がってそれほど好天というわけでもない。佐渡ヶ島は見えなかった。

 北に続く稜線の先には三国境から雪倉岳、朝日岳が連なっている。その先の栂海新道をいつか歩いてみたいものだ(と当時から思っていたのだが・・・)。

 南西に目を向けると白馬の稜線の左側には剣岳、立山が、その左奥に鷲岳から薬師の稜線が横たわり、右の遥か先に加賀白山が望めた。

 南に続く稜線は先ほど頂上宿舎の前から眺めた杓岳、鑓ヶ岳と、その先に唐松岳から五竜岳、鹿島槍ヶ岳までの連なりが見通せた。

 山頂で眺望を楽しんだ後、一緒だった青年は一足先にスキーで下っていった。

 自分もその後から下山した。最初のうちは晴れ間も出ていたが、そのうち上空に雲が広がってくる。

 雪渓の傾斜の一番きついところでは、高度感で足がすくみ後ろ向きで下った。腐れ雪でツボ足も脆かったので、それで正解だったかもしれない、

 そこを少し下った雪渓の中にザレ場があり、そこで若い男女の四、五人のグループが休憩していた。そのうちの一人の女性が横になってノンビリしているように見えた。「こんな落石の危険のあるところなんかで」と訝しく思った。それについては後で事情がわかった。

 雪上なので膝や腰には楽だが、なにしろ靴擦れが痛くて辛かった。プラスチックブーツで腐った雪の上を下っているとそのうち足首が疲労してきてグニャっとなってしまう。姿勢が安定しないのでバランスを崩して何度か転倒した。

 大雪渓をしばらく下っていくと死んだカモシカが横たわっていた。崖から転落したのか、病気で弱っていたのか・・・。(注)

 予想に反してきつい下りだったが、やっとのこと猿倉に下りて来た。

 山荘でタクシーを呼んで待っていると、ほどなく車が来たので乗り込んだ。ところが、走り出してからドライバーに「○○さんでしょ?」と聞かれた。自分ではない。別の人が先に呼んでいたタクシーに間違って乗ってしまったらしい。すぐ後に次のタクシー(自分が乗るはずだった?)が来ていたので、○○さんはそちらに乗れたようだけれど。

 ドライバーが大雪渓で滑落があったことを話していた。先に下りてきた登山者から聞いたのだろう、なんでも女性が急な斜面を二百メートルほど落ちて、ザレ場のところで止まったようだ。ケガはしていなかったようだが本人はショックで身動きできなくなっていたらしい。

 それを聞いて、休憩していたグループのことを思い出した。女性が横になっていたのはそういうわけだったのかと思う。

 駅に向かう途中でみみずくの湯に寄り、汗を流していく。

 例のごとく白馬から前橋に帰るときの記憶はない。

 

(注)大雪渓の登り始めで落石を目撃したことと下山中にカモシカの死骸を見たことの記述は、前年の八月の山行中の出来事と思ってアップしていたが、この山行のアルバムを見返したらそれらの記載があった。

 このため、前年のハ月の内容から削除してこちらに書き替えてある。