(出発日:1994年12月23日、入山日:1994年12月24日、下山~帰宅日:1994年12月25日)

 すでに六月と十一月に二度登頂はしていたが、積雪期はまだ山頂に立てていなかった。

 年末になり上越国境の三国山脈に雪山シーズンが到来したこともありリトライすることにした。
 前の晩に前橋を出発して上越線に乗って行く。水上で二十時半頃の最終の長岡行に乗り換えるが、ホームに登山者の姿を見かけなかった。土合で一人で駅カンすることになったらイヤだなと思う。けれど、土合に着くとぞろぞろ登山者が下車してきたそうした不安は杞憂だった。モグラ駅の長い階段もこれまで何度か昇っていたので少しは慣れてきた。

 駅舎に着くと、すでに駅カンをする登山者がいた。その中にどこかの大学のワンゲル部がいた。十数名ほどいたと思うが変に騒いだりもせず、むしろ異様なくらい静かで、こちらがイビキをかくのも憚られるような節度のある学生たちだった。

 翌朝は日の出前の六半頃に駅を出て、谷川岳ロープウェイの土合口に向かう。東の空に明けの明星が輝いていた。

 ゴンドラで上って行く途中、白毛門の頂上あたりが朝日で紅く染まっていた。

 この頃にはスノーボード人口もだいぶ増えていて、朝早いので人は少なかったがゲレンデにはスキーヤーよりもボーダーの方が目立った。

 前の晩土合で一緒だったワンゲルの大学生たちが、ゲレンデ脇の斜面で雪上訓練しているところだった。滑落停止姿勢の練習を繰り返していたが、こんないい天気なのに山に登らないでいるなんて勿体ないと思った。

 このときはリフトではなく尾根に歩いて行った。見上げた尾根の先に下限過ぎの月がかかっていた。

 尾根のピークに辿り着き、そこで谷川岳の写真を撮っていた二人組の男性とお喋りする。周囲の山々が見渡せたので、あれはどこの山だと山座同定した。北東の方角に見えた白い山並みは平ヶ岳だろうと言う。西の方には遠く北アルプスも見えていた。

 せっかく尾根に上がったが、そこからトレールを辿って一旦鞍部に下る。その先は尾根の上の小さなコブをアップダウンしながらトレールついていて見るからに煩わしい感じだ。

 途中から尾根を巻いていくトレールが分かれていた。ザックも重かったのでそちらを進んでいくことにした。最初のうちは靴の踏み跡もあったのが、しばらく進むとスキーのトレールだけになってしまった。これはしまったと思う。その先はズボズボと膝まで埋もれてしまい慣れていないラッセルに骨が折れる。
 それで時間をロスしてしまい10時半頃ようやく熊穴沢避難小屋に着く。その日は肩ノ小屋に泊まってみようと思っていたが、晩飯用のカレーペーストをパッキングし忘れたことに気づき日帰り山行に急遽変更した。 

 ゴンドラの運転は十六時までだったので、それに間に合わせるため、余計な荷物を避難小屋の前に置いて軽装で山頂をピストンすることにした。

 その先は急登が続く。下から見るとすぐに登れそうに見えるが、そう簡単にはいかない。

 山頂の肩の辺りから山肌に幾筋ものシュプールが付いている。山スキーをしに登ってくるスキーヤーも結構いるようだ。前方にはスノボを担いだ二人の外人が登っていた。そのうち上から三人組がスキーで下ってくる 。気持ち良さそうで羨ましい。

 肩ノ小屋の直下は傾斜がさらにキツくなる。ようやく肩ノ広場に上がってほっとするも、気温が上がってきたせいかアイゼンに雪が着いてタンゴになってしまい、十歩歩いてはピッケルで叩き落とすようだった。

 トマの耳に着くとオバサンの二人組と居合わせただけで、他には人はいなかった。山頂からの眺めは良く富士山も遠望できた。
 この時もなぜだかオキの耳には行っていない。アイゼンに着雪するので面倒になったのかもしれない。
 肩ノ小屋に寄って休憩していく。その日はすでに中で泊まりの準備をしている登山者が四、五人ほどいた。

 そこからは小走りで下ってあっという間に熊穴沢小屋に下りてきてしまう。

 そういえば、当時、谷川岳登頂を日課としている有名な人がいて、登山中に見かけたのはこのときだったか。
 多分、定年退職されていただろうから歳は五十代後半より上だったのではないか。慣れたもので雪上をひょいひょい歩いて自分をさっさと追い抜いていった。自分が山頂手前に来る頃にはもう下山してきていた。登頂回数のゼッケンをつけていて、そのときは何回目だったか覚えていないが数百回(600~800くらい?)だったように思う。
 テレビや新聞でも取り上げられていて、どこかの駅に登頂した姿のポスターが貼ってあったのを見た記憶がある。その後、千回登頂を達成したと報道されていたように思う。
 氏名や最終的な登頂回数などについてネットで検索してみるが、当時はあれだけ有名だったのにその人に関する記事は見つけられなかった。

 避難小屋に置いていった荷物をパッキングしてから下山を始めた。上りの巻道ではラッセルで苦労したので、素直に尾根通しのトレールを歩くことにした。
 しばらく下ったところで持って来た手提げ袋が無いことに気づく。小屋の前に置き忘れたようだった。取りに戻っているとゴンドラの運転終了までに間に合いそうになかった。

 元々肩ノ小屋に泊まるつもりだったが、雪山だから何かアクシデントがあった場合のことも考えてテントも持参していた。カレーペーストは無かったが、自炊はその他の食材でなんとかできなくもなかったので無理して下山しなくてもいいと居直れた。

 まだ積雪もそれほどは深くはなく熊穴沢避難小屋の入り口は埋まっていなかった。小屋の前の平坦な雪上にテントを張れなくはなかったが、少しは寒さも和らぐだろうと横着して小屋の中に設営した。
 当時の小屋は建て替えられる前のもので、壁にはガラスの部分もあったが中には光がそれほど入らず暗かった。
 予定していなかった幕営だが、その晩は自分の他に小屋の外でテントを張っていたグループが一組いたのでそんなに心細くはなかった。
 夜、小屋の外に出ると風はほとんどなく、真冬の山の上だというのに空気が妙に暖かかく感じられた。穏やかなクリスマスイブだった。空はぼんやり霞んでいたようで、星はそれほどたくさんは見えなかった。
 無理して下山しなくてよかったじゃないか、とその時は思っていた。
 翌朝起きて小屋の外を見ると予想外の吹雪である。前夜の穏やかな夜空が嘘のようだった。
 面倒なことになったと思う。テントを撤収して下山を開始する。
 前日の失敗もあるので素直に尾根通しに下って行くが小さなアップダウンが煩わしい。降雪の中で眼鏡が曇るうえに雪がつくので前が見づらい。
 足元の雪もあまり締まってしないので、踏み崩したりスリップしたしりして苛立った記憶がある。
 やれやれといった感じでスキー場に下山してきたか。当時、天神平にはホテルがあり日帰り入浴もできた。ただし入浴時間が限られていてタイミングが合わなかったのか、そこで風呂に入っていったのは一度だけだったように思う。
 浴室の窓から雪が降っているのを見ながら湯船に浸かっていた記憶があるので、このときだったかもしれない。