(出発日:1994年10月7日、入山日:1994年10月8日、下山日:1994年10月9日、帰宅日:1994年10月10日)

 平成四年の年末に初めて新穂高温泉バスターミナルに降り立ったとき、そばを流れる蒲田川の橋のたもとから白い稜線を見上げて、いつかあんなところに登ってみたいと思っていた。ただ、その時はそれが笠ヶ岳だとは知らず、穂高や槍の稜線と勘違いしていた。
 笠ヶ岳は北アルプスの主脈から外れた支稜線上にあり、それこそ後穂高とか裏穂高とでも呼んだらいいようなところに位置している。

 新穂高温泉から見上げると、手前の緑の笠の方が目立つのでそちらが山頂と勘違いしてしまいそうだが、本当の山頂はその左上に地味目に突き出ている。
 代表的なアプローチルートである笠新道は急で大変な登山道で、左俣林道の分岐から杓子平まででも千百メートルの高度差があり、地形図を見ると等高線がびっしり詰まっていて傾斜が緩むところが全くない。北アルプス三大急登(合戦尾根、ブナ立尾根、早月尾根)に匹敵する難所だと思う。

 新穂高温泉からだとコースタイムが八~九時間の長丁場だ。さすがにテントを背負っていくのはキツそうだったので笠ヶ岳山荘に泊まることにした。
 いつもと同じように信越本線で高崎から篠ノ井に行き、そこから篠ノ井線の急行「ちくま」で松本に着いて駅カンしている。

 翌朝は松本電鉄の電車に朝一の臨時列車に乗り込む。連休なので車内はかなり混んでいた。 

 新島々からバスで六時頃に上高地に着いて、そこから平湯温泉に移動して七時半のバスに乗るつもりでいた。上高地の朝一のバスではそれに間に合うかどうかわからなかったのでタクシーに乗ることにしていた。当時は安房トンネルの開通前で安房峠を経由することになるので一万円くらいかかったように思う。ところが、前日に現金を引き出しておくのを忘れてしまい財布に余裕が無かった。当時のタクシーはクレジットなどのキャッシュレス決済に対応していなかった。

 ああ、しまったと思っているところに、タクシードライバーが声をかけてきた。事情を話したら六千円で行ってくれるというので乗ることにした。なんでも、平湯温泉に迎車の予約があるのでそのついでだという。

 平湯温泉には予定より早めに着いた。前夜に風呂に入っていなかったので、当時バスターミナルの三階にあった温泉でさっと身体を洗っていく。

 新穂高温泉には八時過ぎに到着。空は曇っていたが、笠新道の長い急登を考えると日差しがない方がありがたかった。

 キャンプ場に寄っていき、翌日下山してここで一泊していけるいように炊事小屋の脇にテント張って、ザックをパッキングし直していたら出発が九時半になってしまった。これからだと笠ヶ岳山荘に何時に着けるのか不安になる。
 左俣沢林道を一時間ほど歩いてワサビ平小屋の手前で笠新道に入った。この先もずっと一人で上っていくのかと思っていたら、後から四人組のグループが追い付いてきた。やはり人の姿が見えるのは心強い。

 最初は樹林の中を緩やかに登っていくがすぐに急な斜面の道になる。そのうちは晴れ間が広がってきて周囲の山々も見渡せるようになった。
 ひたすら山肌をジグザグに上がっていく。急登にあえいでいると、標高二千メートル付近で森林限界を超えた。(そういえば、途中の沢が崩れたため道がつけ変わっていた気がする)林道の草木はまだ青々しているところも多かったが、このあたりはだいぶ枯れ進んでいる。遮るものが無くなり照りつける太陽が恨めしい。
 その後、次第に雲が広がって日差しは和らいだが、登れど登れどいったいどこまで続くのかという感じだ。上の方に抜戸の稜線が見えてきて、もうすぐのように思うがなかなか急登は終わらない。

 そのうち日差しが全くなくなり風が冷たくなってくる。先を歩いていた四人組に杓子平の手前でようやく追いついた。

 杓子平に着いて休憩する。ハイマツ以外の草木は茶色く冬枯れして山肌は荒涼としていて、抜戸岳から笠ヶ岳の稜線にガスがかかっている。ここまででも十分しんどかったが、あそこまでさらに二百メートル登っていかなければならない。

 飲み物をあまりたくさん持ってこなかったため途中で切らしてしまっていた。ノドが渇いて辛い。それで持ってきた弁当もほとんど手がつかなかった。
 再び歩き始める。稜線に登っていく途中で、もしかしたら沢があるかもと期待するが、どこも涸れていて水は得られなかった。
 稜線直下にやや険しい岩場が現れる。それを登って双六小屋からの縦走路との分岐に到着する。稜線通しの道はアップダウンこそ少ないが、そこからがまだ長かった。

 ときおりガスの間から稜線の山々がのぞいていたが、そのうちガスが濃くなり視界がほとんど利かなくなる。

 抜戸岩を通過する。高さ数メートルの大岩がスパッと割れた間を歩いていく。天候が悪くなったためか、その先ではライチョウが登山道の脇に現れた。

 笠ヶ岳山荘にはやや遅くなったが十七時には到着できた。

 宿泊手続きをした後でビールを飲んで一息ついていると、西側の窓が紅く染まっているのに気づいて外に出ると、いつの間にか雲が切れて夕日が差していた。

 夜、外に出ると槍ヶ岳や穂高の稜線に山小屋の灯りが小さく見えた。

 泊まった部屋は蚕棚式の寝台で自分は上の段だった。隣は自分と同じくらいの年のカップルだったように思う。その日、宿泊する登山者は多かったが、布団は一人一枚で寝られた。

 翌朝は五時半に起きて笠ヶ岳の山頂に向かった。山荘を出たばかりの頃はあたりも薄暗かったが、次第に明るくなってくる。ただ、空は一面曇っていてご来光は望めなかった。

 山頂部は意外なことに横に細長く、ケルンのあるところと祠のあるところの二つにピークがあった。

 上空は曇っていたが周囲の山々は見渡せた。北側には手前に三俣蓮華岳と双六岳が連なり、その奥に鷲羽岳が覗いている。右側の双六岳と樅沢岳の鞍部には双六小屋が見えた。西鎌尾根から右に槍ヶ岳、大喰岳、中岳、南岳が続いている。大きくえぐれた大キレットを介して、北穂、涸沢、奥穂、西穂の穂高の峰々が連なる。割谷山に向かって少し凹んだ稜線の向こうに霞沢岳が姿を現し、その背後の雲海の上に幾重もの山並みかおぼろげに重なっている。ずんぐりとした焼岳の右先には乗鞍岳、さらに右奥には御嶽山が遠望できる。北西の方角は雲海が埋め尽くしていたが、その上に加賀白山の山影が島のように浮かんでいた。

 そういえば、新穂高温泉で蒲田川に架かる橋から笠ケ岳を見上げていたことを思い出す。温泉旅館がいくつも立ち並んでいるのあたりや木立の中のキャップ場を見下ろした。

 山荘に戻って朝食の後に出発する。平たい石が折り重った先に続く山頂部を振り返る。

 その頃には雲が薄くなり日も差してきた。山荘の裏手に小笠があったことに気づいて寄っていく。

 キャンプ場の脇を通り過ぎ、前日も歩いた道を引き返す。そこからはしばらく穏やかな秋の日差しの下、快適な尾根通歩きが続く。抜戸岳の山頂は下から見るのと違って稜線上に少しだけ反り上がっただけの目立たないピークだった。そこでセルフタイマで記念写真を撮ったが、後日できあがってみたらかなりのピンボケになっていた。

 ゴツゴツと突き出した秩父岩を横に見ながら赤茶けたザレた斜面を下って秩父平に下り、その先で再び稜線通しに大ノマ岳、大ノマ乗越を通過していく。弓折岳では笠ヶ岳山荘で同じ部屋だったカップルと再会した。 

 その先の分岐から鏡平に下る 鏡平小屋は十月五日までで宿泊は終了していたが、日中、売店は開いていてジュースなどを販売していた。そこに前年のゴールデンウィークに泊まったワサビ平小屋のスタッフがいた。声をかけてみるが、向こうはこちらのことを全く覚えておらずがっかりした。

 山の上は紅葉が終わっていたが、シシウドが原に下ってくると周囲の山肌に少しだけ赤く染まった葉が残っていた。

 夕方頃、ワサビ平に下りてくる。前日に踏み入った登山口の前にようやく戻ってくる。林道脇では真っ赤に色づいたツタウルシが立ち木から垂れ下がっていた。
 テントを張っておいた新穂温泉のキャンプ場に戻って、一息ついてから自炊の晩飯にした。

 夜、深山荘の露天風呂に入りに行こうとしているときだったか、反対側から自転車で来た青年に声をかけられた。このあたりでテントを張れるところは無いか、みたいなことを聞かれた気がする。

 近くのキャンプ場でテントを張っていることを話して、これから風呂に入りに行くところなのでもし良かったら一緒にいかないかと誘った。あの真っ暗なスノーシェードの中はそれまでに何度か通っているが、それでも一人で歩くのはちょっと怖いのである。彼も風呂にも入りたかったというのでちょうどよかった。

 筑波大の学生さんということだった。自転車であちこち出かけているという。四年生で来年は実家のある宮崎に帰って高校の教員になるということだった。そのときもどこかへ行ってきたところだと聞いたと思うが、その辺のことはさすがに覚えていない。

 風呂から上がってキャンプ場に戻ってきて、彼も自分のテントのそばに設営した。

 翌朝は六時くらいには起きていたか。キャンプ場の裏手の橋から笠ヶ岳の山頂を見上げて前日の朝のことを思い返した。

 簡単に朝食を作って一緒に食べたように思う。その後で、彼は再び自転車に乗って旅立っていった。

 翌年、彼から年賀状をもらっているが、その後はこちらの筆不精もあってそれきりになってしまっている。