(出発日:1994年8月19日、入山日:1994年8月20日、下山~帰宅日:1994年8月21日)

 前年に白馬大池まで上がったものの悪天候で白馬岳には登れなかった。いつか登りに行こうと思ったまま日が経ってしまっていたが、翌年八月に大雪渓から登っている。

 この山行については、前橋を出発して頂上小屋に着くまでのことが書かれたメモ帳が残っていた。(以下の青字はメモ帳の引用箇所)

>先週の山行の疲れが残っていたが、以前Hさんがお勧めだった白馬へなかなか行けずにいたので、とりあえず行ってみることにした。

 重い荷物を背負って折立から新穂高温泉まで縦走してきたばかりだったが元気なものだ。

 この時は、前橋で電車に乗り遅れてタクシーで高崎に移動している。毎度のパターンで信越本線で篠ノ井に行き、そこから急行「ちくま」に乗り一時少し前に松本に着いている。

 出発がバタバタでいろいろ買い足していかなければならないものがあり駅前のコンビニに寄って行った。繁華街が近く、なんとなく風紀が良くなさそうだったが特に支障は無く、翌朝に食べるパンなどを買って駅に戻った。
>改札前のコンコースには、山ヤを中心に駅カンの態勢に入ったのがマグロのように寝転がっている。今年の夏は暑いせいか、シュラフに潜っている者は見かけなかった。

 自分もエアマットを敷いた上に横になる。すでに構内の照明は消されていたが、一部終夜点灯しており、ちょうど自分が仰向けになっている上にもあって目障りだったが、仕方なくそのまま寝る。

 今回の失点の一つは耳栓を忘れたことだ。夜中に酔っ払いがコンコースを徘徊して、横になっている人にケチをつけている。自分のところにもニ三度近づいてきて、そのたびに半分まどろんできたところで目が覚めてしまい迷惑このうえない。

 人の話声が耳につくと眠れなかったので耳栓は必ず持っていったが、このときのように忘れることもあった。

 上記のとおりあまり眠れなかったが四時前には起きて、朝一で到着する急行「アルプス」に乗った。 

>松本から乗った電車の車窓が次第に明るくなる。ところが、あたりはどんよりとして、先週、毎朝快晴だったのがウソのよう。近くの山々に霧がかかり、あまり芳しい天候ではない。

 前週の縦走のときは連日好天に恵まれていたが、このときはそうではなかったようだ。

>白馬に着く。結構な人が下車する。

 駅前のバス乗り場には列ができている。持参するはずの団扇がないのに気づき、売店に買いにいってみたがどこにもない。

 暑がりで大汗をかく自分にとって団扇は必需品だった。登山中に手がふさがるので、山で団扇をあおぐ登山者はほとんど見かけないが。

 少しでも早く登山口に着きたかったのかタクシーで移動しようとしたが、このときは駅前からほとんど出払っていて、残っていた一台も予約済みで乗れなかった。

 仕方なくバスの乗り場の列の後ろの方に並んだが、幸い席に座ることはできた。

>六時に発車。八方を過ぎると道も細くなり、エンジンをうならせながら坂道を上がって行く。途中、タクシーとのすれ違いで何度も停まる。一瞬、車窓から不帰のキレットが見えた。見上げると空には晴れ間が広がってきた。

 いつの間にかウトウトして寝入ってしまった。「間もなく猿倉に到着いたします」という車掌のアナウンスではっと目が覚める。

 猿倉山荘の前には、もうたくさんの人が集まっていて登山の準備をしていた。山荘のスタッフが拡声器で登山届の提出を呼び掛けている。じきにラジオ体操が始まった。ラジオの調子が悪いのが第一体操は音声が途切れ途切れだったが、第二体操では持ち直した。

 ジュースなどを買い、短パンに履き替えて7:05に出発。

 白馬尻までの前半は林道で、後半は登山道となり傾斜もきつくなるが、コースタイム一時間のところを四十五分で歩く。

 やや雲行きが怪しくなる。しばらく歩いて雪渓出合に着き、そこでアイゼンを装着した。

 そのとき初めて大雪渓を目にした。ずっと先の方を歩いている登山者が蟻の行列のよう見えた。 

>アイゼンを着けるのは初めてで、具合が良くなく何度も外れてしまった。そのたびに、バンドを締め直したため時間をかなりロスする。それでもそのうち慣れててきて外れなくなった。
 雪渓登りは初めてだった。このときのために十本爪のアイゼンを買ったと思う。すでに十二本爪のは持っていたが、プラスチックブーツ用のバインディングタイプなので夏靴には使えなかった。
 紐で固定するタイプなので、締め方が悪いと外れてしまう。要領を得ていなかったから、途中で何度か締め直して時間をロスした。
 山馴れた人ならアイゼンを使わずにスプーンカットのへりに足を乗せて歩けるということだったが、実際に列の脇をゴム長靴でスイスイ登っていく人がいて感心した。

 登っていくとガスってきたので改めて落石に注意するようにした。

>今年は雪渓が小さかったため一時間も歩かずに終わってしまった。
 そこからが長かった。生憎、天候は良くなかった。上空も曇ってあたりもガスが立ち込めていたが、むしろ自分にとっては涼しくてありがたかった。
 傾斜がきつくなってくるにつれ、登山道が渋滞してきてのろのろとしたペースになった。脇道にそれて先回りしようとしたが、ザレて足元が悪く思ったように進めないので諦めて元の列に戻った。
 それでも休憩を取らずに歩き続けたせいか、ローペースの割には行程は捗っているようだった。高度を増すに従い気温が下がってきて、立ち止まっているだけで体温を奪われ消耗してしまうので、あまり休む気にもなれなかった。

 途中から夏道を歩くが、あまり景色を楽しんだ記憶が無い。ずっとガスの中で視界が効かなかったかもしれない。小雨にも降られて肌寒かったような記憶がある。

 葱平あたりで結構バテていたように思う。自分の悪い癖でついついオーバーペースになりがちだった。いくら前に歩いている登山者を追い越しても、その先でバテて長く休んでしまうので、結局、追いつかれるか抜き返されることが多かった。
 このときはノロノロと歩かざるを得なかったので、そうした無駄バテ休憩でロスすることも無かったようだ。

>そのローペースで長い急登を進んでいくと、視界の上方に村営の頂上山荘の三角屋根が見えてきた。
 天候もいくぶん回復して晴れ間も出て来るとともに、山麓の平地
(安曇野盆地のことか)も眺めることができるようになった。
 あと十分ちょっとで山小屋に着けると思うが、疲れてきたこともあってニ十分ほどかかった。 

 このときは小屋泊まりにしている。前週に折立から新穂高温泉までテント泊で縦走していたが、余計な物を詰め込み過ぎたためザックが非常に重くて山中で腰を痛めてしまった。その骨休めもあり小屋泊まりにしたように思う。

 そのまま先の白馬山荘まで行くことも考えたが、手前の頂上宿舎の方が混んでいないだろうと思い、そこで泊まっていくことにした。

 宿泊の手続きを済ませた後だったか、小屋の前で登ってきた道筋を見下ろしながら生ビールを飲んだ。当時、ビールサーバーを置いている山小屋は珍しかった。
 食事は自炊にした。前の週先の縦走では荷物を軽くするために食事はフリーズドライの食品などで済ませることが多く実に味気なかった。高天原山荘に一緒に泊まった二人組の楽しそうな食事の様子が羨ましかったこともあり、今回は野菜や肉をもって行き自炊を楽しむことにした。

 スーパーで買ってきたステーキ肉をアルミ箔に包んで冷凍して持ってきたが、生なのでここまで持つか少し不安があった。かなり時間が経っていたが、開けてみるとさすがに解凍していたものの中はまだ冷たく痛んではいなかった。
 けれど、焼き網に載せて火にかけるともうもうと煙が上がり始め、あっという間に自炊部屋が煙だらけになる。他の登山者にいったい何を作っているのかとのぞき込まれた。「豪勢ですね」などとと言われるが、煙のことが気になって味わってるどころではなかった。

 泊った部屋は蚕棚式の寝床だった。夏山シーズンだったので小屋がそれなりに混むことは覚悟していたが、その日は一人布団一枚ずつの割り当てでほっとした。

 この記事をアップしている時点でこの山行のアルバムが行方不明のため、以降のことは思い出せることも以下のことくらい。
 山小屋に着いた日には山頂に向かわなかった気がする。あたりがガスっていて視界が効かなかったか。

 翌朝、白馬山荘の中を通って山頂に行った記憶があるが、肝心の山頂でのことがまるで思い出せない。そのときも天気が良くなくて眺望に恵まれなかったのかもしれない。

 雪渓の下山は、前週の山行で痛めた膝や腰には負担が少なく楽だったように思う。

 ただし、空は曇っていて景色もぱっとしなかったような印象が残っている。大雪渓を半分くらい下ったところにカモシカが死んでいた。崖から転落したのか、病気で弱っていたのか・・・。
 白馬駅に下りてからミミズクの湯に行ったが、休みで入れなかったのはこのときだったか。
 帰りは大糸線で松本まで行き、そこからいつものように篠ノ井線に乗って長野を経由し、信越線に乗り継いでいったと思う。