(出発~下山日:1994年4月下旬、帰宅日:1994年5月1日)

 前橋に引っ越してしばらくは谷川岳を二度登ろうとした以外で山には登れていなかったと思う。
 三月から四月にかけては職場の行事や社外試験などの準備で週末の時間を取られ、ゴールデンウィークになりようやく山に出掛けることができた。
 その年のゴールデンウィークは三連休が二回に分かれていた(4/29~5/1、5/3~5/5)。その前半で西穂高岳に登りに行くことにした。

(ただ、このときのアルバムが行方不明で、切符などの日付が確認できるものも見当たらない。このときは西穂山荘に泊まった翌日は新穂高キャンプ場でテント泊したように思うが、そのへんの記憶が抜け落ちている。いろいろ不確かなところがあるため、後日、アルバムなどが出てきた際に書き直すことになると思う)

 入山する前の晩に信越本線で長野を経由してから松本に移動していたと思う。

 当時は長野(北陸)新幹線の開通前で、高崎から最終の特急「あさま」に乗り長野(か篠ノ井)で大阪行きの急行「ちくま」に乗り換え、松本に着いたのは一時過ぎだったか。
 松本に駅カンをしたのはこのときが初めてだったのではないか。まだ今の駅舎に改築される前のことだった。
 駅に着いた時にはすでに改札前のコンコースに二十名ほどの登山者がシュラフで寝ていた。自分はシュラフを出すのが面倒でウレタンマットを敷いた上にレインウエアなどを着込んで横になった。
 しばらくするとどこからかホームレスがやってきて寝ている登山者に絡み始めた。どうやら、自分たちは追い出されるのになんでお前たちは寝てていいんだと文句を言っているようだった。
 こっちに来たら嫌だなと思っていたが、なぜか自分のところには近寄ってこなかった。
 どうも頭まですっぽりシュラフに被っている登山者のあたりをうろうろしていた。すぐに反撃されそうにない人を選んでちょっかいを出しているようだった。
 しばらくしてホームレスはいなくなったが、よく眠れないまま四時頃に起きて、毎度のように松本電鉄に乗り新島々からバスで上高地に入った。
 上高地から西穂山荘までの記憶が無い。おそらく、登山道の途中から残雪の上を歩いていたと思う。

 テント泊の準備はしていったが、そのときは西穂山荘にに泊まっている。小屋に着いた日は天気が良くなかったか。
 濡れたレインウェアやスパッツなどを乾燥室に干しにいくと、中で老人が一人で椅子に腰かけていた。山荘の創立者(村上守氏)のようだった。
 こちらに声をかけてきて、ここの乾燥室は暖かくていいだろう?と自慢そうに話していたのを覚えている。
 たしかに登山者にとってとてもありがたいことだった。(あれから数年後に亡くなられて、今はお孫さんが小屋を継いおられるようだ)
 翌日も天気は良くなくて朝から小雪が降っていた。
 それまでに積雪期の登山は何度か経験したが、雪が降る中、険しい岩稜を歩くのは初めてだった。
 ただ、独標までは正月にも登っていたのでどんなところか見当はついていたし、岩場には鎖もついているので特に難しいところは無かった。
 問題はその先だった。昨秋もここで先に進むのを躊躇ったが、改めて下り口を覗き込むと「こんなところを下れるのか」とたじろいでしまう。
 なかなか踏ん切りがつかずにしばらく逡巡したが、いつまでもその場にいる訳にもいかないので恐る恐る下り始めた。けれど、怖さのあまり岩にしがみついてしまって足元が見えず、どこに足を置けばわからず動けなくなる。
 これはまずいと一度独標の上に戻った。こんな状態で本当に下れるのか不安だったが、気分を落ち着かせて下の岩の位置を確認してからリトライした。
 必死に足がかりを探りながらなんとか下りられたが、その様子はかなり無様だったと思う。前後に人がいなかったのがせめての救いだった。たしか、この下りだけで脚が筋肉痛になったように思う。
 次のピークの下りも同じような岩場だったが、一度怖いをして少し慣れたのか、緊張はしたもののそれほどぐずぐずしないで下れた。
 その先でもいくつかのピークを通過していくが、アイゼンワークが十分身についていたわけではないので緊張の連続だった。雪が降っていたので眼鏡が曇るのにも悩まされたと思う。ただ、天候が悪く周囲がガスって高度感が無かった分だけ恐怖感は少なかったかもしれない。
 山頂の手前のコルに着くと、上高地側から西穂高沢を登ってくる登山者が結構いた。こんなところを登ってくるのかとビックリする。かなりの急斜面だが積雪があるからこそ登れるコースだ。
 最後に雪が凍りついた斜面を登り切って山頂に辿り着く。雪が降る中で眺望は全く無かったが初登頂の達成感で気分は良かった。
 下山も緊張の連続だった。とにかくアイゼンを余計なところに引っ掛けないように細心の注意を払った。
 途中、険しい岩場から比較的安全な平坦地に下りたときだった。それまで張りつめていた気分が緩んで脚の力が抜けてしまい、バランスを崩して後ろに倒れてしまった。

 腰をしたたか打ちつけてとても痛かったが、これが足元に余裕の無いところだったらこんなものでは済まない。岩場ではひと時も気を抜いてはいけないのだと反省する。

 昼頃には西穂山荘に戻っていたか。

 ロープウェイで新穂高温泉に下りてキャンプ場でテント泊したように思うが、そのときの記憶が無い。

 山の上は天気が良くなかったが、キャンプ場で雨に降られたのかどうかも思い出せない。

 帰り道はどうしただろう。ゴールデンウィークには安房峠が開通していたので、名古屋や富山を経由する必要は無かった。
 当時は新穂高温泉から松本へ直行するバスは無かったので、一旦、上高地に入ってから新島々行のバスに乗り換えて行くことになる。このときもそうしたはずである。

 連休中で上高地には観光客が多く、バスの整理券はすぐに取れただろうか。それほど帰りが遅くなった記憶は無いので、なんとかなったのかもしれない。