(出発日:1993年9月10日、入山日:1993年9月11日、下山~帰宅日:1993年9月12日)
北岳に登頂した後で次は南アルプスの別の山にしようということで仙丈ケ岳を選んだように記憶している。
新宿から夜行の「アルプス」か快速のどちらかで甲府に行き、そこから三時か四時発のバスに乗ったのではないか。
大樺沢で北沢峠行のバスに乗り換えて行った。マイクロバスだったと思う。
北沢峠から登ったのはこのときだけだった。どうもこのバスを乗り継いで行くというのが面倒で、その後も仙丈ケ岳には再訪していないし同様にアプローチする甲斐駒ケ岳にも登らずじまいになったのはその辺に理由がある。
上りは小仙丈ケ岳経由にした。その時のアルバムの最初の写真は尾根を登っている途中の森林限界のあたりで甲斐駒ケを撮ったものだ。メモに9/11の日付がある。
小仙丈ケ岳の山頂に着いた頃は上空も快晴だったようである。南東方向に北岳と間ノ岳の稜線が続き、北側には馬の背の奥に北アルプスの穂高や槍が雲の上にのぞいていた。
そこから尾根伝いに仙丈ケ岳の山頂に到着。南側から雲が湧きたってきた。その後は次第にあたりは雲に覆われてきた。
カールの中に下って仙丈小屋に入った。小屋の前にテン場があり、その日はいくつもテントが張られていた。
当時は無人小屋でトイレは外に別にあったが壊れていて使いものにならなかった。
そのため小屋の周辺の草むらのそここにティッシュペーパーやら排泄物が落ちていて、注意していないと踏んづけていまいかねない状態だった。
さすがにこれはまずいだろうと思ったが、トイレ事情がこうではやむなしという気もした。
小屋の近くに若い男性二人組が腰を下ろしてバナナを食べていたが、なんと食べ終わった皮を放り投げていた。「自然に帰るからいいんだ」と言うが、ずいぶん乱暴な話だと思った。
そんな具合で小屋の周りの状況はかなり酷く、とても残念に思った。
それでも今から何年か前に夏期だけ山小屋に管理人が入るようになったというから、現在は改善されているものと信じたい。
自分はそこでキジ撃ちするのは気が退けたので、ビールを買いに馬の背ヒュッテまで下った際についでに用を足してきた。
仙丈小屋に戻った後で晩飯にした。外で自炊していると、山頂の方からアンテナを担いだ青年が下りてきた。アマチュア無線をやっているという。
夜になり小屋でシュラフに潜って寝たが、その青年は寝具を用意してこなかったという。大丈夫なのかと聞くと、着込んでいるしなんとかなるだろうと答えていた。けれど、夜中か明け方に、ときおりガスコンロを点火して暖を取っているようだった。
後年、裏銀座を縦走したときは荷物を軽くしようとしてシュラフを省略したが夜は寒くてよく眠れなかった。このことを思い出してコンロを点けたが、あの時、彼もろくに眠れなかったのではと思った。
翌朝は五時頃に起きた。外に出ると上空には雲が多い。鋸岳の向こうの雲の上に八ヶ岳が顔を出していた。
再び頂上に向かった。東の空がオレンジ色に朝焼けていた。
六時過ぎに山頂に着く。すっきり晴れてはいなかったが、北アルプスの稜線も遠望でき穂高や槍もかろうじて確認できた。
北岳のシルエットの左側に並んで富士山が雲海の上に突き出ていた。背景の雲のグラデーションと山影の微妙な色合いの対称がとても印象的だった。
カールの東側から仙丈小屋に下り、帰り支度をして下山した。馬の背ヒュッテのあたりではナナカマドの実が色づいていた。
樹林の中の藪沢小屋の前を通っていく。そのとき光景を思い起こすと、当時聞いていたシェックのバイオリン協奏曲の楽想が頭の中に流れる。
朝のうちは雲が多かったが、その頃にはだいぶ青空が広がってきていた。
昼頃には北沢峠に着いたと思う。
広河原に向かうマイクロバスに乗り込むとき、やけに日差しが強かったことを覚えている。
アルバムの最後の写真は大樺沢から広河原ロッジに通じる道を撮ったものだったので、この後、ロッジの風呂に入っていったのだと思う。
その後のことは思い出せない。