(出発日:1993年2月21日、入山~下山日:1993年2月22日、帰宅日、1993年2月23日)

 「今度はきちんした装備でリベンジしよう」と翌年に開聞岳に再訪している。

 前年と同じく二月に休暇を取得し、往きは新幹線と急行「かいもん」の乗り継いで行った。けれど、初回ほど記憶が残っていない。
 印象的だったコンビナートの夜景は徳山のあたりだということがわかった。
 余談だが、今でこそ工場夜景ファンという人々がいることやそうした趣味が一般にも認知されているが、当時はこんなものにワクワクする自分はどこか感覚がおかしいんじゃないかとすら思っていた。
 トンネルの多い山陽新幹線で退屈することがわかっていたので、途中駅で気分転換にこだま(レールスターだったか?)に乗り換えている。
 前回と同じく門司で鹿児島本線の急行「かいもん」に乗り換えたが、このときのこともまるで記憶に残っていない。
 西鹿児島から山川までの記憶も乏しい。前回とても印象的だった早朝の鹿児島湾の朝焼けをまた見れたらいいなと思っていたが、その時は曇り空でまるで期待はずれだった。
 山川駅からのバスでは、今度こそ間違えなように気をつけ「開門山麓」ではなく、その先の「開聞登山口」で下車した。ちなみに、二つのバス停は結構離れていた。
 バス停の近くに中学校があった。その脇の道を歩いて行くと、たまたま通りかかった地元の少年に挨拶された。道で会った人には誰にでも挨拶をする習慣があるのだろう。自分が子供の頃いた群馬の田舎ではそうしたことはなかったので新鮮に感じた。
 道の先の登山口から入り、円錐形の山肌を螺旋状に登山道を辿っていく。

 それからは前回のようなアクシデントも無く至って順調だった。前回はあれだけ苦労して登ったのに、このときは難なく山頂に着いてしまう。すでに山慣れしていたせいもあり少々物足りなくさえ感じられた。
 眼下に海が広がり見晴らしは良いのだが、残念ながら空はべた曇りで景色もぱっとしなかった。
 そのときは他に何人がいて、後日、三俣山荘で再会することになるOさんがいらっしゃった。
 開聞岳はちょうど富士山を小さくしたような火山で、火口の中をお鉢巡りできるようになっていた。お鉢の中は常緑樹が密生していたように思う。けれど、山頂脇からじめじめしたうす暗い木立の中を下る道に入る気になれなかった。
 前回散々だった下山も特に問題無し。道沿いに広がる菜の花畑を見た気がする。
 Oさんとは駅で再開して西鹿児島まで一緒だったように思う。
 西鹿児島に戻ったあとの記憶がほぼ無い。銭湯には行かなかったと思う。前回行ったところがわからなくなったのか、それともただ面倒になったのか。
 二回目ということもあり少しは街の様子もわかっていたから、何か飲み食いしにいってもよさそうなものだが。
 先日、そのときのアルバムに市電の整理券(乗車券)がはさんであるのを見つけた。乗ってはいたのだろうが、どこからどこまでとかまるで覚えていない。天文館にでも行ったのだろうとは思うが。
 その晩、帰京のため再び「かいもん」に乗った。
 向かいの寝台に地元の少年が乗り合わせた。何をきっかけに、どちらから話かけたか忘れたが自分からではなかったように思う。
 こちらが横浜から来たと話すと、これから東京へ行こうとしていると言った。
 たしか、高校生だったと思う。これから東京へ引っ越した彼女に会いに行くというのである。
 青春ドラマのような展開にちょっとびっくりする。
 小倉から一緒に新幹線に乗り換え東京まで移動した。
 彼とは東京駅で別れたが、その後、彼女には無事に会えたのだろうか。

 

 この山行については、JRの切符などが残っていなかったので、日付がわからないままだった。

 先日、市電の整理券を見返した。緑色の紙には数字が2か所印刷されていて、左側に「22」と上に小さく「2」とある。最初見た時は気にも留めなかったが、ふと、これは日付だったりしないかと思った。

 2月22日であれば月曜日である。有休休暇は土日と合わせて取っていて、続く月曜日と火曜日であれば帰宅する前日ということで辻褄が合わないこともない。

 やや確証に乏しくはあるが、これに基づいてタイトルと冒頭の日付を書き替えている。