(出発日:1992年12月25日、入山日:1992年12月26日、帰宅日:1992年12月27日)

 とりあえず十一月に北八の天狗岳で雪山デビューしたが、その時は初めて使う装備を試すにはいい機会となった。
 プラスチックブーツは重くてかなり歩きづらいこと、アイゼンは足運びに気を付けないと爪をスパッツなどに引っ掛けて転倒することなどいろいろ教訓があった。
 けれど、新雪が少し積もったくらいの登山道ではアイゼンやピッケルがどうしても必要となるような場面は無かった。
 秋頃だったか、毎月のように買って読んでいた「岳人」に雪山特集が組まれていた。
 その中に、入門編として新穂高温泉から西穂独標に登るコースが紹介されていた。
 まだ、無雪期の独標にすら登ったことが無かったが、どんなものか挑戦してみたくなった。
 西穂山荘は通年営業しているというので小屋泊まりで登ってみることにした。
 けれど、こともあろうに当初は松本から上高地に向かうつもりでいた。年末年始に上高地に入る登山者がいるという話を聞いて、冬季でも比較的アクセスしやすいのだと思っていた。
 当時はまだ安房トンネルが開通する前で、冬の間は安房峠が閉鎖され飛騨側へのアクセスに時間がかかるため、沢渡から歩くにせよ上高地からの方が移動時間も短く済むだろうくらいに安易に考えていた。
 けれど、沢渡から上高地に歩いていったことも無かったし、実際にどのくらいかかるかも把握していなかった。

 上高地まで行けたとして、果たしてその先の登山道を登って西穂山荘まで辿り着けたかどうか。(まず無理だったんじゃないかと思うが)
 後記の通り上高地には入れなかったわけだが、結果的にはそれで正解だったと思う。
 その日はクリスマス(12/25)だった。金曜日の晩、会社から帰ってきてから支度をしていたので出発は遅かった。新宿を23時台に発車する急行「アルプス」には間に合わなくても、0時過ぎに発車する快速に乗れればいい。そんな風に考えていたと思う。
 横浜から移動中、渋谷で山手線を待っているときに人身事故のアナウンスが入った。
 どうやら日暮里あたりで飛び込みがあったらしい。
 その後も復旧に時間を要しているとの続報があり、いつ運転再開されるかわからない状況になっていた。
 このまま待っていたら快速の発車時刻にも間に合わなくなりそうだったので地下鉄で迂回していくことにした。
 銀座線に乗り赤坂見付で丸の内線に乗り換えるが終電近くの帰宅客で車内は混んでいた。
 ザックを背負って乗り込むのはかなり憚られたが、もうそんなことは構っていられない。周りの乗客に大迷惑になのを承知で「すみません」と言って乗り込んだ。
 新宿に着いたときには、発車時刻ギリギリで人混み中を必死になって先を急いだ。
 やっとホームに上がる階段にたどり着いたとき、無情にも列車が発車していくところだった。
 なんということか・・・。
 しかも、0時過ぎでは横浜にも帰ろうにも電車はもう無かった。 
 どうしたものかと思うが、当時、武蔵境の職場の寮にいたO君のところに電話をして転がり込んだ。
 これで諦め切れず、翌朝、東京を六時発の新幹線に乗って、名古屋から高山を経由して新穂高温泉に向かうことにした。
 これから出発して山に登ってこられるのかもわからなかったが、名古屋ではタイミングよく八時台の特急に乗れた。
 新穂高温泉のバスターミナルに降り立ったのは午後一時か二時くらいだったか。空はどんよりとしていた。
 その曇天を背景に、狭い谷の向こうに雪を被った笠ヶ岳の稜線が厳しく立ちはだかる様子に、未知への不安の中にもなにか心躍るものを感じた。
 「あんなところまで行けるのだろうか」「でも、行けるものなら行ってみたい・・・」。
 もっとも、そのときは山の位置関係すらわかっておらず、目にしている山々が槍穂の稜線だと思い込んでいた。
 当時はまだスキー場が営業していた。スキー客に混じってロープウェイに乗っていく。
 第二ロープウェイに乗り継いで西穂平に着いたのは午後三時くらいだったか。
 登山道にトレイルはついていたが、それほどしっかり踏まれておらず足がズボズボと埋まる。それでなくてもプラスチックブーツは歩きづらいし、冬は装備が多くてザックが重いので思うように進めずもどかしい。アイゼンに雪がついて落とすのも煩わしかったように思う。防寒のため重ね着をしていたが、そのうち暑くなり汗がだらだら出る。
 慣れない雪道に苦戦をしていると、後から来た西穂山荘に荷揚げのスタッフに追い抜かれた。
 冬の日暮れは早く、見上げると西穂の稜線が赤く染まっていた。とても印象的な光景だった。
 無雪期であれば一時間ちょっとで上がれるところを二時間近くかかったのではないか。
 日も沈んであたりが暗くなり始める頃、やっと小屋に着く。
 西穂山荘はその少し前に火事で焼けてしまい、新館はまだ建設中で隣の仮営業の方の建物(現在は食堂・売店)に泊まった。
 中はストーブが焚かれていて暖かった。眼鏡が曇る。室内の奥にオレンジ色の大きな貯水タンクがあった。
 受付を済ませて、二階の部屋に案内された。当日は何名かの宿泊があり、同じ部屋には自分を含め四人くらいいたと思う。
 その中に都内からきた男性がいて、登山装備を池袋のSR秀山荘でよく買っていると話していた。
 食事はどうしていたかは覚えていない。小屋の食事ではなく自炊したような気がする。
 翌朝、同室の人達はあたりが明るくなる頃には準備を済ませて先に出発していった。
 自分も遅ればせながらスタートした。晴れていたが風が強かった。
 丸山を超えると斜度がきつくなる。まだそれほど積雪は深くなく雪の中からハイマツや石が出ていたが、思ったように先に進めない。
 翌日からは年末の繁忙期で職場に早出することになっていたと思う。帰りが遅くなるわけにいかなかった。独標はまだまだ上の方だったが、帰りのバスや鉄道の時刻のこともあり、中途半端だったが途中で引き返すことにした。
 小屋に戻って一息ついてから下山し、新穂高温泉からバスに乗り高山に出た。
 独標まで行けなかったのは心残りだったが、真冬の北アルプスから無事に下山できてほっとはしていた。
 しかし、それで気が抜けたのか買ったばかりのピッケルをどこかに忘れてきてしまった。バスの中に持ち込んでいた記憶があるが、高山駅では手元に無かった気がする。
 横浜に帰ってから気づいてバス会社に電話したが、結局、出てこなかった。