新卒で就職してしばらくは仕事にも慣れていなかったし、休日にどっと疲労が出て遠出するどころではなかった。
 当時はまだ完全週休二日ではなく土曜日は午前だけ半日出勤だったが、実際のところは残業で夕方か夜まで会社にいることが多く、平日と大した違いはなかった。
 実質的に休みは日曜だけで、日頃の睡眠不足を解消するために昼近くまで寝坊することが多く、遠くに出掛けようという気にはならなかった。
 職場に完全週休二日制が導入されたのは社会人2年目のことだった。
 土曜日が休みになるといくらか余裕が出てきて、急に思い立っては行き当たりばったりで電車に乗って出掛けるようになった。
 子供の頃から鉄道は好きだったが、乗り鉄というほどのマニアでもなかった。
 ただ、電車に乗ってあちこちに行ってみたかった、それだけのことだった。
 けれど、これといった目的や目標も無いのでさほど満足感が得られる訳でもなく、漫然と休日が終わっていくことに空しさも感じていた。

 社会人になってか二年目の秋にふらっと東武日光線に乗って出かけた。
 おそらく野岩鉄道が開通して東武鬼怒川線と直通運転を始めたころだと思う。
 どんな路線か興味があったというだけでこれといった目的地や行動計画もなく、時刻表を見て電車の乗り継ぎだけ確認しただけだったように思う。
 浅草から快速に乗って野岩鉄道のどこかの駅(男鹿高原だったように思う)まで行くつもりで車内精算したが、財布を改めて確認すると大した金が残っていない・・・。
 これでは往きはいいが帰ってこられない。
 向こうに着いたらATMでおろせばいいとも思ったが、行った先の山間部の駅前にATMがあるかどうか。
 それに当時は今のようにどこの金融機関のカードでも金をおろせるわけではなかった。
 自分の持っている地銀のカードは地銀ネットワークに接続している金融機関のATMでないとダメである。都銀のATMは使えなかった。
 どうしようか・・・。
 (因みに、当時は今のようにクレジット払いも普及していなかったし、もちろん電子マネーなんて無かった)
 一回精算してしまった後なので途中下車すると払った金額が全部無駄になってしまうが、行先で心細い思いをするのも嫌なので次の停車駅の新古河で降りた。
 このまま引き返すのではあまりに空しいので、駅前から歩いてみることにした。
 駅前に何かあるだろうと思ったが見事なほど何にもなかった。小さな食堂か売店がぽつんとあるだけではなかったか。
 駅前から利根川の堤防へ上がってみる。
 左方向に行った交差点から先に長い橋が架かっている。そして川上の方に大きなオレンジ色の水門が見えた。
 これまで見たこともない構造物でなにかとても異様な物体のように感じた。
 引き付けられるように近くまで行ってみるが、水門はじっとそこに佇んでいるだけで何か面白いことがあるわけでもない。
 河川敷のアスファルトの道は照り返しが強く少し暑かった。
 せっかくの外出が空振りになってしまってなんとも空しい気分だった。
 
 その翌週か翌々週に再度日光線・野岩鉄道に乗りに行った。
 あくまで野岩鉄道に乗ることが目的だったため、特にどこか行きたいところがあるわけでもなかった。
 ただ、それだけはつまらないだろうと、地図を眺めて五十里湖から西に行ったところにある湯西川温泉にとりあえず行ってみることにした。
 朝七時頃に浅草を発車する電車に乗り午前中に湯西川温泉駅に着いたと思う。
 駅はトンネルの中にあったように思う。外に出ると前に五十里湖があって赤錆びたさびた野岩鉄道の鉄橋が架かっていた。
 なんでこんなに錆びているのか不自然に感じたが、後にそれは意図的にそうしているものだと知った。
 当時、駅の周りは何もなかった。左の道を進んだ先に温泉地があるようだったがバスなどの移動手段は何も無かったように思う。
 温泉まではとても歩いていけるような距離ではなかったので、これでは行くのは無理だと早々に諦めた。
 一体何をしに行ったのかという感じだ。
 これで帰ってしまうのもさすがにもったいないと思った。まだ少し時間があるし・・・ふと、戦場ヶ原に行くことを思いついた。
 高校一年の六月頃に一年生全員の日帰りの旅行の途中で寄った戦場ヶ原のことが印象に残っていた。
 日光に着いたのは午後二時か三時頃ではなかったか。そこからバスに乗って戦場ヶ原に向かった。
 戦場ヶ原の入り口に着いたときはすでに日暮れ時だった。
 急ぎ足で湿原の遊歩道を進んでいくが、途中でかなり暗くなってくる。
 こんな時分に歩いているのは自分だけで、だんだん心細くなってくる。
 しばらく歩いた先で、そばを流れる沢の中に人の頭くらいの大きさの何かがいくつか薄暗がりの中に不気味に白く浮き上がって見えた。
 得体の知れないものに恐怖を感じで、そっちの方はできるだけ見ないようにして小走りに通り過ぎた。
 あとはどこをどうやって来たのか、車道にようやく出てきた頃にはあたりはかなり暗くなっていた。
 バス停を見つけてそれほど待たずにやってきたバスに乗って日光に戻った。
 帰りは浅草行の特急「けごん」に乗った。
 当時は先頭車両がボンネット型の1720型で浅草の駅で見ることはあったが乗るのはそれが初めてだった。

 上記の翌年、五月のゴールデンウィークに帰省したとき、再び戦場ヶ原に行っている。
 その頃、マーラーの交響曲四番をよく聴いていた。なので、第一楽章を思い浮かべるとそのときのことが思い出される。
 実家に帰った翌朝早く桐生駅から両毛線に乗り、栃木で東武日光線に乗り換えた。
 前年と同じく日光からバスで戦場ヶ原に移動した。
 高校で行ったときは湿原も樹林も緑が濃かったが、その時はあたりはまだ冬枯れたままで殺風景な景色が広がっていた。
 五月の初めはまだ気温も低く芽吹きには早かったのだ。
 空もすっきり晴れていたわけでもなく周囲の雪の残る山々も冴えない。
 期待を裏切られてがっかりした。

 湿原の中を歩いてしばらく行くと、昨秋、得体の知れない物体を見たあたりに差し掛かる。
 ふと、見下ろした沢の中に、スゲの仲間が丸く固まって枯れているのがいくつもあった。
 ああ、こんなものを怖がっていたのかと拍子抜けしてしまう。
 その後、湯滝の脇を上がって湯ノ湖まで行ったと思うが、よく覚えていない。
 
 その後、東武日光線に乗ってもう一度日光方面に行っている。
 当時は湯ノ湖から金精峠を越えて鎌田まで二時間ほどかけて運行する東武バスの路線があった。
 時刻表でそれを見つけて、どんなものだろうと乗りに行ったのだと思う。
 平日に休みを取って行ったかもしれない。
 浅草からは運行開始して間もないスペーシアに乗った。 
 乗客が少なかったのは平日だったためだろう。湯ノ湖からバスに乗ったのも自分一人だった。
 雨こそ降らなかったが、空は曇っていた。
 峠道を上がり金精トンネルを超えて群馬県側に入る。
 菅沼を過ぎて、その先の丸沼で十分くらい停車した。
 下車して沼の岸の方へ行ってみた。静かでいいところだ。
 機会があればまた訪れてみたいなと思った。
 その後、終点まで乗客は自分だけだったように思う。これでは空気を運んでいるようなもので大赤字だろう。
 (そんなことを思っていたら、案の定、その路線は一、ニ年後だったか廃止されてしまった)
 鎌田で沼田行きのバスに乗り継ぎ、上越線に乗って帰ってきたと思う。