子供の頃から山に行くことは好きだった。
 自分がまだ三歳の時(もう半世紀以上前になるが)に東京から群馬県の桐生市に引っ越したが、それから間もない頃に家族で山にハイキングに行った記憶がある。
 どこの山に行ったかは全く覚えていないが、おそらく、自宅からそう遠くないところだったと思う。
 こだまが聞こえるというので、「ヤッホー」と叫んでみたら、代わり向かいの山にいた人から「ヤッホー」と返ってきた・・・そんな光景を朧げに覚えている。
 山中を歩きながら両親が「山は空気が美味しい」と言った。
 幼い自分は空気に味なんかしないし何か美味しいのかさっぱりわからなかったが、親が言っているのだからそういうものなのだろうと思うことにした。
 それまで住んでいた東京は車の排気ガスや工場の煙などで大気汚染が酷かったから、両親にしてみたら山の空気がご馳走に思えたというのもあるだろう。

 また、別の機会に隣町に遊びに行くことがあった。水の張られていない田んぼにレンゲが咲いていたから春先のことだと思う。
 近場の山に入り、山中の沢の脇で休憩していたことが印象に残っている。
 何が楽しかったのか忘れてしまったが、子供心にまたそこに行きたいとしきりに思っていたことだけは覚えている。

 小学四年のとき長野の祖父が亡くなり、おそらくそのその一周忌のときのことではないかと思う。
 まだ辺り真っ暗なうちに群馬の実家を出て、早朝のうちに長野に入った。
 まだ時間に余裕があったので、実家に行く前にちょっと遠回りして戸隠神社のあたりで蕎麦を食べに行った。
 そば屋の店先でガラス窓越しにそば打ちしているのを見せていた。
 その後、展望台のようなところで雪の残る戸隠山を正面に眺めた。なんでも、その時期にこんなに良く見えるのは珍しいということだった。
 まだらに雪の残る山肌が印象的だった。
 登山がどういうものかわかっていなかったが、いつかあの山に登ってみたいと思っていた。

 小学四年の3月下旬にクラスのお別れ会としてみんなで市内の山に登ることになった。
 北側の山地から続く尾根が市街地にせり出した末端に山頂があり、麓からはひきわ目立つ山だ。
 このときまで自分は登ったことがなかった。
 市街地まで電車に乗り、そこから歩いて山に向かった。
 手前にある水道山と呼ばれる小山から続く道の先から山道になる。
 そこを少し登った山の中腹にトンビ岩という大きな露岩が付きだしていているところがあり展望が良かった。
 そこから先がメインの山登りとなる。別に競争したわけではなかったが、子供心に誰よりも先に登りたい。
 山頂には自分が一番乗りした。
 (記憶違いかもしれないが、そのときは二回山頂に立っている。その二回とも一番乗りだったが、そもそもなぜもう一回登ることになったのか覚えていない)

 小学五年の時に一泊二日の林間学校があった。
 春から初夏にかけての時期だったような気がする。
 廃校になった小学校の校舎を再利用した「梅北山の家」と呼ばれる市の施設に泊まった。
 おそらく、旧校名は梅田北小学校だったと思う。当時は、梅北・山の家ではなく、梅北山・の家のように思っており、施設のことを「梅北山」と呼んでいた。なので、児童の間では「林間学校に行った」とは言わず、「梅北山に行った」のように言っていた。
 朝、小学校を貸し切りバスで出発してどこまで行ったか。当時、梅田馬立という東武バスの終点があり、その車庫みたいなのを見た気がする。
 そこから歩いて行ったかもしれない。
 梅北山に行く前の授業で担任教師が「梅田の山奥に平家の落人が移り住んだので当地には藤の付く姓が多い。集落名が藤生というのもその名残だ」と説明していた記憶がある。日本史がよくわかっていなかったので、源平の合戦で滅ぼされたのは平氏なのになぜ藤原姓が由来するのかピンとこなかった。
 午後、砂利道をハイキングしたことを覚えている。道の脇の沢で教師か誰かが岩海苔が生えていると言ったが、よくわからなかった。
 どこに行ったのかはわからないが、天気が良かったことだけは覚えている。
 夕飯は、各児童が一合ずつ持参してきた白米での飯盒炊飯だった。おかずは、グループごとに用意してきたかと思う。自分たちは、たしかK君が一押しのボンカレーだった気がする。
 教師が火を起こした薪のかまどに飯盒をくべた。飯盒から湯気があがり、そろそろ焚けたタイミングで火から下してすぐにさかさまに置いた。
 底に焦げ目がついたが、そこそこ上手く炊けていたように思う。食後に飯盒を洗い、きれいになっているか教師にチェックされた。
 その後はキャンプファイヤーと風呂のどっちが先だったろう。
 風呂はそんなに大きくなかったので、ニ三名ずつ順番で入った。
 生徒の多くは同級生の前で裸になったことが無かったので恥ずかしがったが、教師にさっさと脱いで入れと急かされるように入った。
 キャンプファイヤーは定番の歌やダンスだったのだと思うが、どんなだったか覚えていない。
 就寝は九時頃だったか。消灯してからも、皆、なかなか寝付けなかったと思う。
 けれど、教師が見回りにくるので静かにはしていたように思う。
 翌日のことはまるで覚えていない。朝食も自炊したように思うがほとんど印象が無い。その日は帰るだけだったか。
※梅北山の家は、平成五年の閉鎖まで使用され、その後、建物は解体されているそうである。
 地図で確認すると、思っていたよりずいぶん北の方にあって、久津原という集落のあたりになるらしい。
 東武バスの終点の梅田馬立からだと四~五kmある。