電車はちょっと怖いけどね…😢
で、そんな中最近思うことがありまして…
それは、子供の生徒さんで、「バイオリンが好きではない子」に無理にレッスンをしていいのかどうか、ということ。
先生という立場ではもちろん続けてほしい気持ちはありますし、バイオリンを好きになってもらえない最大の理由として、先生としての私の未熟さがあると思っております。
しかし、私個人としては、
『嫌な習い事なら無理に続けなくてもいい』
という考えを持っておりまして。
昔よりだいぶ減ってきた気はしますが、
「好きなことを一生懸命する」よりも、「嫌いなことを一生懸命する」方が偉い
という風潮が、なんとなくありますよね。
我慢は美徳。忍耐こそ美徳。のような。
否定はしません。たしかに素晴らしいことだと思います。
でも、私はこの考え方はあまり好きではありせん。
なぜ「嫌いなこと」をする方が偉いのでしょう?
しなくてもいい我慢をすることが、なぜ素晴らしいことになるのでしょう?
「好きなこと」だろうが、「嫌いなこと」だろうが、『一生懸命それをしている』なら、それはどっちも素晴らしいことではないのでしょうか。
なぜそこに優劣が生まれるんでしょうか。
好きなことをするか、嫌いなことをするか、それは行為をする本人が選ぶことです。
嫌なことを頑張るより、好きなことで頑張りたいと思い頑張ることは素晴らしいし、
嫌だけど、好きなことをするために必要だから頑張ろう、と思い頑張るならそれもまた素晴らしいことです。
好きなことばかりしていたら忍耐力がつかない、心が弱くなると言う方もいらっしゃいますが、それもおかしな話です。
心底好きなことをしていたって、心が折れそうになったり、壁にぶち当たったり、もう辞めてしまった方がいいのかもと弱気になってしまうようなことにはたくさん出会います。
そこで奮起するか、新しい道を探すかはまた人それぞれですし、何が正しいとは言えませんが、好きなことだけを頑張ることで「心が育たない」だの「忍耐力がつかない」だの言い切ってしまうような教育からは、もうだいぶフェーズが進んできているはず。
無意識に心を縛り付けるような風潮が、少しでも早くなくなるといいなと常々思っています。
同じように、バイオリンが好きになれない子供たちにも、私は同じことを思っています。
もちろん、その子がバイオリンを好きになれないのは私の未熟な指導力のせいでしょう。
でもそれ以外にも、『相性・向き不向き』というのはどうしたって存在しますよね。
頑張って我慢して続けていても、どうしても好きになれないなら、辞めたって構わないと思っています。
やめ癖がつくとかいう話もありますが、嫌いなことを無理に続けるストレスの方がずっと問題です。お子さんなら特に。
子供たち一人一人に、心底打ち込める、心がやすらぐような好きなことが見つかったらいいな。それがバイオリンだったらもっと嬉しいな。
新しい子供の生徒さんに出会うたび、そんなことを思いながらレッスンしています。