「邪魔」の正体とは「面倒だなあ」という気持ちなんじゃないだろうか。未来を展望して言葉にする時は、それはそれは前向きな言葉で饒舌になるであろう。だから楽しい。でも、言葉にする時間がお開きになった後に残るのは、山積みされた問題である。乏しい社会経験であるが敢えて言わせてもらえば、未来を語っている時、すでにそのお腹の中では、今後クリアさせなければならない問題点がうごめいていて、早くも苦しさを感じてしまっているかもしれない。









 いざ語り終わってみれば、たとえ周りに人がいたとしても、実はほぼひとりぼっちであることに気づく。うまく人を使える能力のある者ならば別のこと、前述の通り、人には「変え難い生来の気質」というものがあって、どうにもならないことも多い。「自分で抱え込んでしまう」という気質の人なら本当に大変である。










 ひとりぼっちであることに気づいた時、目の前に山積されている課題は予想以上に高いものであることにも気づく。いや、高いならばよいのだ。高いならば奮い立つかもしれないからだ。よし、いっちょ戦ってやろうかと力が湧いてくるかもしれない。









 問題なのは、高い山ではなく、課題の数々がやたらめったらに散らかっている時である。派手なハードルを越えるのではなく、散らかった地味な課題(雑用と言ってもいいかもしれない)をショートカットせず一つ一つ片付けていかねばならない時。そしてそれをやるのがおおかた自分だけになりそうだと思う時。一つ一つ片付けるが、時間がかかって、ザルで水をすくうようなもどかしさと戦わねばならない。しかし、特に励みになるものがわかりやすくぶら下がっているわけではない時。そんな時に「面倒だなあ」が口をついて出てくる。







(月輪が出ていたようである。月暈(つきがさ)と言うらしい。)