今月発売のSWIM。
なんと私の記事が載っているではないですか・・・・・・。 えっ?
全く何も聞いていなかったので、ちょっぴりビックリしてしまったわけですが、でも、すごく良い記事だったんです。
記事の内容は、私と稲田法子ちゃんが競い争って来た!と言う話し。
私が中学1年生の時、日本水泳界では、イヤ、日本中が岩崎恭子さんのオリンピック金メダルに沸いていた。
その時、中2トリオと言われていた3人の中学生日本代表の中に、稲田法子さん(法ちゃん)もいたのだ。
同じ背泳ぎの選手で、しかも年齢は1つしか違わない。(1歳年上)
そんな人がなぜ、オリンピックの代表になれるのだろう・・・・・・。
私にとって、稲田法子さんは手の届かない雲の上の存在の人であったのだ。
その法ちゃんが、いつから私の事を知ってくれたのかはわからない。(笑)
でも、私は法ちゃんが小学生の時から知っていた。
もちろん自分のライバル選手になるなんて思ってもいなかった・・・・・・。
私が、初の日本代表になったのが中学3年生。
当時は、女子日本水泳界のピークは中学生か、高校生だった。
だから中学生で日本代表になったとしても、何の驚きもなかったのだ。
しかし、ここでの仲間・ライバルが日本の女子背泳ぎを作り上げていった!と言っても過言ではないと思っている。
当時は、日本女子背泳ぎ陣は、私を含め稲田法子・中尾美樹・萩原智子の4人が鎬を削って戦っていた。
大きな国際大会になれば、代表枠は2名になる。
誰かが選ばれ、誰かが落選。
そして「代表になる」=「国際大会でのメダル獲得」と、かなりレベルの高い戦いでもあった。
正直、そんなレベルの高い種目の中で戦っている自分が「損」をしているのではないかと思った事もあった。
他の種目の選手だったら!と…
いつぐらいからだったのだろう・・・・・・・・。
私と法ちゃんは100M。
美樹っちとハギは200M。と、4人の種目がキレイ?に分かれていったのである。
もちろん勝たなきゃならない人でもあり、その人を「ライバル」と言うのかもしれない。
しかし、みんな言う「ライバルあっての自分」と。
もちろん私も、その一人だ。
この記事でも書いてあるが、法ちゃんは中2でバルセロナ五輪(1992)、期待されたアトランタ五輪(1996)は落選、シドニー五輪(2000)、そしてアテネ五輪(2004)と五輪3大会代表でもある。
私は、高2のアトランタ五輪(1996)、シドニー五輪(2000)に出場し、期待されてたアテネ五輪は落選。
この時、水泳をやっていた自分、オリンピックでメダルなんて獲得してしまった自分が嫌で嫌で仕方なかった。
自分の存在すら許せなくて、生きている事すら辛かったかもしれない。
地元の新潟には帰れなかった自分は、東京の友達の家で、ただ息をして生きている、そんな生活を送っていたのだった。
でも、きっとみんながこうした辛さを味わっている。
ライバルだった頃は、話せなかった事でも、今はお互いの気持ちになって涙しながら語ったりしている。
法ちゃんは、6年振りに現役復帰。
今も尚、選手として泳いでいるのだ。
ライバルだったみんなが、それぞれの道へと進んでいっている。
2004年、あの時、アテネ五輪の日本代表になれなくて、その「辛さ」だけで、水泳を辞めていたら、今の自分はなかったと思う。
あの時は、本当に水も見る事も嫌で、人とも会う事すら辛かった。
でも、そんな自分を支えて励ましてくれたのもライバルだったのだ。
言いたい事を言う人、離れていく人がいる中で、
本当の仲間だけが、光も何もない自分を応援してくれた。
そんな事を思い出させてくれた文章でもあった。
この記事を書いてくれた団野さん。
お会いした事はあるのかな????????
今また、こうして こんな素敵な記事を書いてくれた団野さんに感謝です!(笑)
ありがとうございました。