新学期のスタートですね。
我が家もいよいよスタート。息子は年少さんの時からの大好きなお友達とまた同じクラスで、最高にハッピー!!
長女も仲良しの一人とは同じクラスでホッとしていました。
次女は「たかえ、アナスタジー(彼女の大の仲良し)と違うクラスになっちゃったね。」と言うと・・・「え?でもバルタザー(相思相愛の男の子)と一緒だから平気!!!」
逞しすぎる・・・・

8月に大好きな、大好きな祖母が95歳で亡くなりました。
この数か月、ゆっくりと、でも私たちにとっては早すぎるスピードでしたが、身体の中の電気を一つずつ消していっていたのです。
春にアメリカに住む妹と私は、母からの連絡ですぐに東京に来ました。
私は1か月近く滞在し、病院に通いました。何か大きな病があるわけではなく、微妙な体のバランスが崩れてしまっていたのです。
それを回復させる方法はただ一つ…口から栄養を取ることでした。
私だったらコーヒースプーンで3口で食べ終わってしまうような量のゼリーを、2時間かけて食べさせたこともあります。
完食してくれれば嬉しけど、時間をかけても食べられない時には本当に落ち込んでしまいました。
みんなで「おばあちゃまの体調は気温でも変化するくらいだから・・・一喜一憂するのはやめようね」と話していたのに、毎日、一喜一憂していました(笑)
この時の目標は「夏休みに子供たち(祖母にとってはひ孫たち)が日本に来るから、絶対に会ってもらいたい!!」でした。
いつもいつも目標を決めて、祖母も頑張っていました。
銀座生まれ銀座育ち!!“銀座小町”と呼ばれていた祖母です。
とにかく力がなくても「銀座に行きたいわ!!」と。
「銀座に行くためには、これを食べないとね!!」
「そうねえ」と言って祖母は口をあけてくれました。

7月のある日、私が昼食を食べさせに行った日、この数か月で一番よく食べました!!!もう嬉しくて、嬉しくて・・・大急ぎで家族に報告をしました!!
でも、この後から・・・口から食べることが難しくなってしまい・・・
あれは一体なんだったのだろう?と今でも思います。
東京を発つ日、病院に行きました。「おばあちゃま、大好きよ。すごく大好きよ。」
「私もえりちゃん、大好きよ」ささやくような声で言ってくれました。
もう涙が止まらない私を子供たちはじ~~~っと見つめていました。

夏休みの計画を変更したりしないでね!!という母からの願いで、予定通りに夏休みがスタート。アメリカで妹ファミリーと一緒にいる時に、祖母が私たちのもとから離れてしまったと報せがはいりました。
95歳は大往生!!でも、やはり家族にとってはさみしい別れです。
祖母の棺にひ孫たちが書いて、病室に貼ってあった絵やお手紙や好きだった服をいれました。
「そうだ、おばあちゃま、カルピスとじゃがりこも好きだったから入れてあげようよ!!」「でもカルピスウォーターのボトルって入れていいのかしら?」
そんなことをみんなで話しながら、笑ったり・・・
「あ、私は女四世代の本を入れたい!!」女四世代ひとつ屋根のした…という本は私が祖母のために書いた本でした。祖母に読んでもらいたくて書いた本だったので、真っ先に“大好きなおばあちゃまへ”と書いてプレゼントしたのです。
でも・・家の中で見つからないのです。
「きっと、どこかに閉まってしまったのね。」家には一冊もこの本がなく、母のオフィスになら何冊かあるということで葬儀の前にオフィスによることにしました。
時間もなく、母は大急ぎでその中の一冊を手に取り、私が待つ車に乗ってきました。
「えりこ、不思議ね~~~。ページをあけずに一冊だけ持ってきたら・・・ほら、この一冊があなたがおばあちゃまにプレゼントした本だったの。」
確かに私が“大好きなおばあちゃまへ”と書いた本でした。

美しく、品が良く、穏やかな祖母でしたが、関東大震災や戦争を経験し、大切な人たちを多く亡くしてしまい・・・いやな思いも沢山してきたはずなのに、そういうことは一切言わず、ほんわかとしていました。
でも芯の強さは誰もかなわないくらいすごかったのだと思います。
悲しかったけど、お坊様のお話を聞いて心が軽くなりました。
「おばあちゃま、69年ぶりにおじいちゃまに会っているんだね。大きいおばあちゃま(曾祖母)や大好きなお兄様たちにも会えているし・・・」

生があれば死があるのはあるのは当たり前のことですが・・・その当たり前のことを私たちは中々受け入れられないですよね。
それがましてや突然のことだったりしたら・・・
この夏、子供たちや姪や甥たちは毎日、合唱曲のビリーブを歌っていました。
何度も病室でも歌いました。
今でもパリで子供たちは毎日歌っています。今日はみんなで道を歩いている時に大声で歌いました!!!