合気道を始めて、最初の頃は、技を覚えることで手一杯です。
初段までは練習、いろいろな技を覚えること、初段になってからは稽古、覚えた技を深めること、と教わりました。
口合気という言葉があります。筆者は、口で合気道を説明するだけで、体を動かさない合気道をすることをいうのだと思っています。稽古をする時、上位者は、口で説明するより、体で、受身で導くことをすることが大事だと思っています。どうして、口合気が多くなるのだろう、どうすれば体の合気(体を動かすことによって学ぶ合気道)にできないのかと思っていました。
先日、遠藤先生の研鑽会で、「技を覚えることを目標にしていると、ひととおり技を教えると、今度は、人に教えたくなる。それは、自分のための稽古となっていない。」との言葉があり、なるほどそういうことかと知りました。
締め技で、相手にきいているかどうかばかりに気をとられていてはいけない、相手を投げつけることばかり気にしている稽古ではいけない、ということだと思います。感じる稽古、相手がどう動いているか、どの方向に動こうとしているか、を感じる稽古をしなければ自分の稽古にならないということだと思います。
受身のときも漫然と投げられるのを待っているのではなく、受けの時にどのように動くかと考えないといけないのだと思います。突っ立っている受身ではなく、十分にひざを曲げて柔らかく、手首、肘も柔らかく、受身を取ることが大事なのだと思っています。そういう受身をとると、1時間の稽古でも十分な運動量になるのではと思います。
取りの時も、受けの時も大事にした稽古、考える合気道、Thinking AIKIDOを行っていきたいと感じる次第です。
初段までは練習、いろいろな技を覚えること、初段になってからは稽古、覚えた技を深めること、と教わりました。
口合気という言葉があります。筆者は、口で合気道を説明するだけで、体を動かさない合気道をすることをいうのだと思っています。稽古をする時、上位者は、口で説明するより、体で、受身で導くことをすることが大事だと思っています。どうして、口合気が多くなるのだろう、どうすれば体の合気(体を動かすことによって学ぶ合気道)にできないのかと思っていました。
先日、遠藤先生の研鑽会で、「技を覚えることを目標にしていると、ひととおり技を教えると、今度は、人に教えたくなる。それは、自分のための稽古となっていない。」との言葉があり、なるほどそういうことかと知りました。
締め技で、相手にきいているかどうかばかりに気をとられていてはいけない、相手を投げつけることばかり気にしている稽古ではいけない、ということだと思います。感じる稽古、相手がどう動いているか、どの方向に動こうとしているか、を感じる稽古をしなければ自分の稽古にならないということだと思います。
受身のときも漫然と投げられるのを待っているのではなく、受けの時にどのように動くかと考えないといけないのだと思います。突っ立っている受身ではなく、十分にひざを曲げて柔らかく、手首、肘も柔らかく、受身を取ることが大事なのだと思っています。そういう受身をとると、1時間の稽古でも十分な運動量になるのではと思います。
取りの時も、受けの時も大事にした稽古、考える合気道、Thinking AIKIDOを行っていきたいと感じる次第です。