2022/10/1~10/4投稿
”よく見える”という意味の熊本弁、「ヨミュール」。
展望所の名前も、ヨ・ミュール。(*^^*)
看板やサインは見かけませんでしたが、ジェラート屋さんの名前も、ヨ・ミュール。
この漢字、ヨミュール?パイパイではないそうです。ヨミュールで笑いを取りたかっただけでした。\(^o^)/
ちなみに大型双眼鏡(3分100円)だと、よくミュールよ!!
こちらの休憩所に入ってみました。(*^^*)
近くに『轍』という、熊本地震の様子を見学できる場所があるみたいです。(^o^)
2016年に発生した熊本地震の記憶を後世に伝えていくため、2021年10月にプレオープンした震災伝承館 轍(わだち)。
地震の概要や南阿蘇村の被害状況をはじめ、地震から現在までの復興の様子、「学生村」と呼ばれた東海大学生と地域住民のつながりなどを6つのゾーンに分けてわかりやすく伝えています。
こちらが新阿蘇大橋の歩道ですね。自転車で渡ろうかとも思いましたが、時間が……。
そろそろ仕事に行かなければいけないので、また改めて熊本を訪れる事に……。
そして約2ヶ月後、新しく出来たワンピースの銅像と銅像の記念カードを求めて熊本を訪れました。
新しく出来たワンピースの銅像と絶景を求め、3回目の熊本です。有明海沿いのルートで熊本を目指しました。最初に『前田家別邸』に向かいます。(*^^*)
今日はいい天気ですね。\(^o^)/
前田家別邸はこちらだそうです。車を止めて歩きました。(*^^*)
夏目漱石の小説「草枕」の舞台となった、明治の政治家前田案山子の温泉宿跡です。
漱石は五高時代の明治30年大晦日頃ここを訪れ、正月過ぎまで滞在。
その体験をもとに「草枕」を執筆しています。 別邸内には、漱石が泊まった「離れ」の6畳間と湯煙の中に女が現れる場面のモデルとなった浴場が保存公開されています。(*^^*)
『前田家別邸』が見えてきました。\(^o^)/
小説の情景や出来事の多くが漱石の実体験に基くもので、奇異なつくりの”那古井の宿”もこの別邸の構造などから書かれたものです。
前田家別邸は2005年4月24日、一般公開が始まりました。
従来、「漱石館」と呼ばれ、「離れ」の一部屋のみ公開されていましたが、敷地の一部に残存していた「浴場」が2004年度に修復工事を終え、母屋を除く別邸敷地とともに、初めて一般に公開されることになりました。
旧小天(おあま)村湯ノ浦地区には古くから温泉が湧き、小天温泉として数軒の宿があり、前田家別邸もその一つでした。
前田家の当主案山子(1828~1904)は、幼名一角、元服後覚之助と名のり、槍の達人で、細川藩に指南として仕えていましたが、明治維新に際し、“農民とともに生きる”決意で案山子と改名。自由民権運動の闘士となり、干拓農地の免租運動などに奔走しました。
この日は休みで見れませんでしたが、こんな感じらしいですよ。
明治11年(1878)、彼はここに別邸を建て、中江兆民や岸田俊子(中島湘烟)、中国革命の志士黄興など多くの同志が全国から来訪。
時には大演説会も開かれるなど、さながら政治クラブの観を呈する中、請われるままに一部を温泉宿として解放しました。
当時、小天温泉は熊本市街から最も近い温泉地であり、旧制五高の先生たちも好んで利用していました。
案山子は、明治23年(1890)の第1回衆議院議員も務めました。
明治30年(1897)の暮、当時第五高等学校教授であった夏目金之助(漱石)は、熊本での2度目の正月に同僚と二人でこの別邸を訪れ、離れに宿泊。「温泉や水滑らかに去年の垢」と数日間ゆっくり過ごしました。
明治39年(1906)、漱石はこの旅をモデルに小説「草枕」を発表しました。作中、前田家別邸は「那古井の宿」、前田家は「志保田家」、案山子が「老隠居」、次女ツナが「那美さん」として登場。
そばの第2別邸の庭池も「鏡が池」、八久保地区の本邸は「白壁の家」と書き、小天を「那古井」という架空の地名で描いています。
当時の別邸は、敷地全体に配置され、段差を生かした複雑な様相の屋敷で、中庭を囲むように旅館棟の本館(木造3階建)、浴場、離れと母屋(住居棟)が回廊、渡り廊下で結ばれていました。
本館と離れの一部はなくなり、母屋は建て替えられていますが、漱石が宿泊した離れの6畳間と浴場が現存しています。
『草枕の道』前回も辿りましたね。\(^o^)/
離れの6畳間は、昭和61年に修復。浴場は、平成16年に半地下の洗い場、湯漕を当時のままに保存、上屋が復元されました。
前田家別邸を後にし、『玉名市草枕交流館』を目指しました。……続く
『感想』
ワンピース銅像を回るともれなく貰える記念カードを集める旅を、また2ヶ月後に再び巡りました。こうやって何度も熊本にきて貰う工夫をされているのがいいですね。(^∇^)