なかはし院長のブログ -38ページ目

ボランティアのお話ー3

こんにちわ、いつもついてる、ついてる!運がいい。


ありがとうございます。ボランティアの話、第3回目です。



いまから5、6年前、10月20日水曜日、兵庫県北部に


台風19か20号が直撃し、豊岡市を流れる円山川が氾濫、


決壊し大洪水となったことがありました。




10月20日水曜と記憶にあるのはその日は昼から休みで


ほんと偶然に横浜に転勤になった友人が帰阪中、


その台風の影響で新幹線が不通で帰れなくなり、連絡を受け


急遽再会して一杯飲むことになったのでよく覚えてました。


我々が平和に飲んでいた時、豊岡市周辺では大変な事態で


ありました。当時阪神間は台風の被害はほぼなかったのです。



皆さんも記憶にある方もおられると思いますが、川から遠い



普通の道路まで水が押し寄せ、バスが屋根まで浸水し、その上


で数十人の方が救助を待っていた、という状況がありました。


まわりは真っ暗でバスの屋根以外はすべて周りは濁流という


凄まじい状況をご記憶かとも思います。その台風被害です。



そんな日から10日ほど経った頃、新聞のある記事を読みました


ボランティアが不足、地域により偏りありという内容でした。


兵庫県北部の比較的大きい市である豊岡市にボランティアが


集中したようです。確かに被害も大きかったのですが連日の


TVなどマスコミ報道は豊岡中心だったのでそうなったと思います


また台風が10月20日、そして新潟中越沖地震がその2~3日


後に発生したように思います。これで話題は新潟一色でした。



新潟も大地震で大変なことになったのは記憶に新しいですが、


残念なのが話題や注目がそちらへいったことにより


兵庫県北部は地方の出来事で報道されなくなったのです。


実は阪神大震災の時も2ヶ月後のオウム地下鉄サリン事件で


話題が東京になってしまい、当時忘れ去られた感がありました。



そんな中、その豊岡市より近隣の出石町(いずしちょう)が


ボランティア不足でピンチという内容でした。新聞に載っていた


県の窓口に聞くと「是非とも出石町にいってほしい」とのことで


当時の出石町役場にメールして問い合わせてみるとすぐに


直接電話で連絡が入り是非きてほしいとのことでした。



こちらからのメールの内容は


私の職業を説明し、土曜の夜に現地入りして希望者がいれば


マッサージなど慰安施術が可能であり、翌日役場にて復興作業


に参加しお手伝いする という事をお伝えしました。



役場からOKをいただき、土曜の仕事を午前で切り上げ、


同じ兵庫県、北上3~4時間で出石町に到着し、被災者の方の


受け入れ先の健康センターのようなところで希望者の方の体を


ほぐし癒しをさせていただきました。幸い その施設は広く、


応援物資にも余裕があり、一夜の宿をお借りできました。





兵庫県北部は日本海側の気候、我々瀬戸内側とまったく違う


環境で季節は11月1~2日、夜は寒く、山間部で初めての土地、


街灯が少なく、コンビニもどこにあるか分からず、大変心細く


感じました。私ひとりの単独行動でしたからよりそう思いました。




この話はもう少し続きますが、今回のシメの言葉でここでも


やはり、私が衝撃を受けたあの言葉がでました。


豊岡市の甚大な被害をレポートしていたTV番組で


豊岡市のある代表の男性が言いました。


「地元の中学生や高校生は何してるんや


こんな大変な時に


復興作業を手伝いに来なアカン!」




その通りだと思います、地元の若い力、若者が地元の復興の


ために頑張るのは当たり前だと思います。勉強もスポーツも


大事ですが地元が緊急事態に陥っているときは皆で力をあわせ


協力していくのが最優先です。


ここでも阪神大震災でボランティアからの同じ指摘がありました。




長々と画像や映像なしに書いております。ごめんなさい。


失礼いたします。まだもう少しこの話題でブログを書き込みます。


最後までお読みいただきまして ありがとうございます。


今日も一日、ついてるついてる、我々は運がいい。幸せ豊か


恵まれてます、感謝いたします、ありがとうございます。


なかはしのHP http://bcaweb.bai.ne.jp/relax-nakahashi/








ボランティアのお話ー2

こんにちわ~、いつもいつも ありがとうございます。


私はボランティアの専門家ではありませんが、思う事があり


書き込んでおります。



ボランティアをする方の問題点もあります。悲しいですが


現実に人が被災地に来ることにより障害が出る事もあるのです。



大震災の時はこんなことがありました。


ある先輩方が私に尋ねました。西宮市の○○小学校は


どの辺にあるか?そこに行ってボランティア活動したいが


車でどれぐらいかかる?と尋ねられました。



私は目が点になりました。 ( ̄□ ̄;) はあ?


この方々はTVを見てないのかと。(T_T)


当時被害の少なかった大阪方面から被害甚大な神戸方面に


移動するのにどれだけ大変で難しかったか。o(;△;)o


人々は行けるところまで電車で行ってそこから徒歩でいくのが


普通でした。大動脈の国道43号線は阪神高速倒壊で不通、


そのため国道2号線は大渋滞の大混乱


そんな中、車でいくのかと?!


数台の車で行って渋滞を招き復興の邪魔をしにいくのかと?!



道路事情を説明するとなんとボランティア活動は結局中止に


なったのです。これも情けない。(>_<)


こういう勘違いした人はするべきでない。行くべきでない。




また被災後1~2か月後、知人が見舞いにきてくれました。


いろいろ物資を持ってきてくれました。


帰るとき連れの女性がトイレにいきたいといいました。



(゚_゚i) しまったー!トイレは水がないのですぐ流さず


ある程度ためてから流しておりました。大はさすが無理ですが


小は一度で流さずためておりました。水を節約してました。


そう、節約のため、流しておりませんでした。



なぜ水を節約していたか?


その水は18L入りのタンクを数百M離れた、無料で提供して


くださってた民家のガレージまで汲みにいってました。


手で持ち帰っていたのでそれは滅茶苦茶、重労働でした。


当時水洗トイレの一回流すのが18Lぐらい、すぐでした。


この水を汲むのにどれだけ大変か!!!o(TωT )



日々の水汲みでつくづく思いました。節約は当たり前でした。


非力な老人や女性、子供はあの作業は困難です。


ましてやエレベーターが止まっていれば集合住宅の上の階に


住んでいれば持ってあがるなんて拷問に等しい。 (>_<、)



ボランティアも人間です、おしっこもすればウンコもします。


お腹も減れば、のども渇きます。被災地ではそれができずに


不自由して困っていることがほとんどです。


被災地がどんな状況でどうなっているのかをできるだけ情報を


取り、現地に確認をとることが重要です。


連絡が取れない場合は、ボランティア自身が被災地に迷惑を


かけないように準備していかねばなりません。



次回は兵庫県出石町(いずしちょう と読みます)にボランティア


に行った時のことはお話します。


最後までお読みいただきまして ありがとうございます。


今日も私たちは ついてるついてる、運がいい!幸せ豊か、


恵まれてます。感謝感謝で ありがとうございます!(^O^)


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ボランティアのお話-1

みなさま、こんにちわ~、いつもいつも、ありがとうございます。


宮崎の新燃岳や豪雪地帯の雪下ろしの話などTVで見ますが


とても大変のようですごく気になります。


自然災害は訴え出るところがありません。自然の思いのままです


私は1995年の阪神大震災を経験しました。幸い、親しい人達に


亡くなった方がいなかったので運がよかった、ついてました。




震災後2~3年し時間が作れるようになったので自分の技術を


活かしてボランティアはできないかと考え、行動にうつしました。


やっと復興住宅ができて徐々に仮設住宅の方が移転する少し


前のことでした。とある仮設住宅の自治会に許可を


いただいて集会所に週1回、鍼灸やマッサージを無料ですると


いう企画でした。



一人でボランティアしたのですが、仲間を募集しなかったのは


この企画に賛同しすぐにでも行動に移せるメンバーとなると・・・


色々考え、単独で行動するほうが動きやすいかと思ったのです。



ボランティアしよう!と思ったきっかけは TVでした。


確かNHKだと思います、ある番組で震災の特集をしており


ある若いボランティア青年が言っていたのです。


「俺たちがいなくなったらこの街はどうなる!



なぜ自分たちの街なのにこの街の人達は何もしない!


元気な人もいるだろう、おめえらの街だろう!」


がが~ん!!(゚_゚i)Σ(゚д゚;)


頭を金づちでどつかれた!ような衝撃でした!


私は自宅や自分の生活がまともになったから問題ないと


思ってました。自分のことしか考えてなかった。私の故郷で


私が育った、そして生活している街なのに、何もしてなかった。


故郷のための復興のために 何もしてなかった。



ボランティアの人たちは自分のことはおいといて、わざわざ


助けにきてくれている、いろんな予定も変更して、したい事も


仕事もあるだろうに、この街を助けにきてくださった。


自分たちの縁もゆかりもないかもしれない街の為に。



それからです、私が無理なくできること、さらに私しか


できないことが人のためにできれば と思い、ボランティアを


しようと行動しました。施術を週1回、約6カ月続けました。


その地域の仮設住宅が完全撤退になるまで続けました。



いまの仕事につけて本当によかったなあ~と思いました。


私の存在価値はあるんや、人のためになってるなあ~と。


人に喜んでもらえる仕事やとつくづく思いました。



まだほんの少しですが他のボランティア話があります。


私見ですが また書き込みします。



最後までお読みいただきまして ありがとうございます。


今日も我々は ついてるついてる、運がいい運がいい!


ありがとうございます!!


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