ひらがなさかいで( ̄v ̄ノ)ノ

ひらがなさかいで( ̄v ̄ノ)ノ

もと坂出市民が綴る香川県坂出市のあんなことこんなこと

Amebaでブログを始めよう!

前田知香(ともか)さん。



某包装材印刷会社さんの

TVコマーシャルで


♪なにもかもぉ〜! お〜!


どえらいパワフルな歌声を

披露されているアノ方です。


実は坂出市出身なのだ



Facebookプロフィールより



18年前の12月のある夜、

JR坂出駅の行事広場で

Xmasイベントが催された。


立派なステージが設けられ、

僕は坂出のCATVの依頼で

進行ディレクターとして

参加させてもらった。


様々なジャンルの出演者が

次々と登場したんだけど、

その中でも目玉的な存在が

前田知香さんだった。


2004年のコメディ映画

『いかレスラー』の主題歌

「いかレスラーの歌」

TOMOKA名義で出された

直後でもあったから

話題性もなかなか( ̄ノ)


しかも、その前年には

コカコーラのCMソングを

担当されたこともあり、

坂出市出身の僕にしたら

まさに"郷土の華"的存在!

だったわけです


ところが、


いざお会いしてみたら、

前田知香さんご本人は

実に純朴な女性、というか、

可愛らしい少女だった。

(たしか20歳そこそこの頃)


ものすごく緊張してます


そうはにかみ見せる笑顔か

屈託がなくて素敵だった。



とは言ってもさすがはプロ。

いざステージに上がると

シンガーTOMOKAに変貌!


歌唱力と迫力に満ちた歌で

寒風吹き抜ける会場を

熱く盛り上げてくれた♪



出番を終えられた彼女に、

僕はスタッフ特権を発動。



あの、申し訳ないですが

サインをいただけますか?



TOMOKAさんだった人は

僕が差し出した色紙を

受け取った瞬間に

前田知香さんに戻った。



サイン、ですか(o;)?



ものすごーく困惑した顔。



あ、ごめんなさい(_;)



タレントさん相手に

無礼なことをしたと反省。

色紙を引っ込めかけたら、



あ、いえ。

サインを書いた経験が

まだあまりなくて… 

 


しばらく色紙とペンを手に

あれこれ深慮されてから



うん!


さらさら、さらさら、


あの、

こんなのでよかったら



前田知香さんは

ちょっと恥ずかしそうに

丁寧に手渡してくれた。



その時の色紙がこちら。



前田知香でもなく、

TOMOKAでもなく、


Tmka


なーのだ(v ̄ノ)ノ!


※後藤は僕の旧姓



おそらく世界に1枚だけの、

他にあったとしても第1号の

Tmkaサインだと思う♡



おお(v ̄ノ)





わたくし個人的にですが


坂出市芸能文化遺産


指定させていただきます






僕が19歳の頃、

坂出の実家で飼っていた

ダックスフントのお話。


ワンコを飼わてる方には

ちょっと重い内容です。

途中ででも遠慮せずに

読むのをやめてください。




名前はゴロという。


茶色い短毛の

ふとっちょダックスで

しんのすけさんとは

見た目は全然違うけど

なんとなく

のほほ~ん

とした性格と雰囲気が

共通してますね(^_^;)


ゴロは赤ん坊の時から

一緒に生活してたんで、

ご飯の時間も一緒、

お風呂も一緒、

寝る時は人間の布団に

もぐりこんでとゆー

普通の家族のような

そんな存在やった。




僕が高校を出た年の夏、

僕の父親は過労が原因で

日本脳炎に倒れて、

3日後に死んでしまった。


それから葬式だなんだと

とても慌ただしい数日間、

今までひとりっきりに

なったことのないゴロが

近所の獣医さんに

預けられることになった。



1週間後。

よーやく生活が

それなりな落ち着いて、

僕がゴロを獣医さんまで

迎えに行った。


いくつも檻が並ぶ部屋の

一番奥で、

ゴロは震えるみたいに

小さく丸まってた。


ゴロ!


名前を呼んでやると、

ちょっと戸惑ってから


わきゃん!


もう必死で飛びついて

舐める舐める()



父がいなくなった家も

ゴロが帰ってきて、

ちょっと明るくなった

と思う。



僕は東京の学校を辞め、

香川に戻って就活を始め、

自動車教習所にも

通い出した。



ところが、今度は、

ゴロが体調を崩した。


ご飯をまったく食べず、

息もすごく荒い(_ i)


何日か様子を見て、

また獣医さんへ行った。



結果:重度の急性肝硬変



どーゆーことです?


運動不足と、急激な

ストレスが原因ですね。


で?


今晩いっぱいでしょう。



もともと家の中では

悠々自適だったゴロ。

父親の死と葬儀で

ものすごいストレスを

僕らは押しつけて

しまったわけです。


僕ら人間のせいや。


ものすごい罪悪感と

後悔に責められながら

ゴロを抱いて家に帰った。



暖かい部屋でゴロを

毛布の上に寝かせ、

横に一緒に寝ころがった。


ぜっぜっぜっぜっ


もう息するのも

やっとこさって感じで、

時々ぺろりと鼻の頭を

舐めるだけのゴロ。


意識も混濁してるようで

眼もうつろ。


僕は、なんかしらん

すごく怖くなって

ただただずうっと

ゴロに話しかけていた。


ゴロには聞こえて

いなかったと思うけど。



ゴロは、おしっこを

したくなった時だけ、

無理に立ち上がって

トイレに行こうする。


もーええ、もーええ。

ここでしよ!


何度かそう言うと、


やっとその場で

ちょろっと排尿して、

またくたっとなる。


そんなしんどい状況が

数時間ほど続いた。



8時が過ぎて、

ふとゴロが、なにかを

思い出したみたいに

僕の腕の上に顔を

ちょこんと乗っけた。


どしたん?


ふー


その瞬間、さっきまで

ずっと続いていた

ぜぇぜぇぜぇという

呼吸が静かになった。


すーすー


静かな息。


僕はもう泣きながら

ゴロの体をさすった。


家族も集まってきて、

みんな泣いてた。



家族に見守られる中、

ゴロは最後に


ふぅ


ほっとしたような息を

ひとつして、

僕に抱っこされたまま

動かなくなった。




翌日。

僕は教習所を休んだ。


次の日、若い教官に

理由を訊かれた。


飼い犬が死にまして。


そう伝えた。


すると、教官は

困ったような顔をして


犬が死んだだけで、

教習サボったの?

まずいっしょ。

犬でしょ。ははは


気がついたら

僕は教官を殴ってた。


ひっくり返った教官が

わけがわからないって

顔で僕を見てた。


こりゃ退学やな(v;)


帰る準備してると、


教官の上司がやってきて


担当を別の者に代えます。


そう言ってくれた。


私も犬を飼ってます。

思いは同じです。



教習所からの帰り、

自転車をこぎながら、

僕はわあわあ泣いた。


それがなんの涙か

分からんかったけど、

港沿いの道を

海風に吹かれながら
とにかく僕は

わあわあ泣いた。






僕の家のリビングに壁に

小さな額縁の絵が1枚、

かけられています。



作者は落亀章夫さん。

 

坂出市の商店街で

家具店を営まれていた

落亀さんには、

僕がまだ20代の頃、

街おこし集団の活動で

お世話になっていた。

CATVの取材でも

すごく助けて貰ったし。

 

その落亀さんが、

ALS筋萎縮性側索硬化症

を患った…と

知人から知らされたのは

今から18年前のこと。

 

全身の筋肉組織が硬化し

体が動かくなる難病。

 

お会いするために

ご自宅にお邪魔した時、

落亀さんはベッドの上で

寝たきりの状態だった。

 

動かせるのは顔の表情と

顎まわりの筋肉だけ。

呼吸補助装置のため

言葉を発することも

出来ない状態だった。

 

ところが驚くことに、

落亀さんはその状態で

創作活動を行なっていた。

 

顎に特殊な光センサーを

装着して動きを読み取り、

画面上の[YES] [NO]

選択することで

Macをコントロールする。

 

その機能を使い、

緻密で鮮やかな色合いと

独創的かつ幻想的な構図で

絵を描いてたわけです。

 

かち。かちかち。かち…

 

落亀さんの操作によって、

心地いいリズムが響く。

 

か、感動した( ̄o ̄;)

 

画面上では、

主に点と線の組み合わせで

ドラマチックな絵が

魔法のように描かれていく。

 

このへんはさすが

グラフィックデザイナー

でもあった落亀さんの

本領発揮!ってとこです。

 

僕が呼ばれたのは、

作業用Macの調整のため。

 

久しぶりにお会い出来て

僕もすごく嬉しかったし、

奥さんとめちゃめちゃ

仲良しなご様子も見れて、

僕もシアワセ〜な気分に

なれた( ̄v ̄ノ)ノ

 

 

落亀さんの作品の中でも

僕が心を奪われたのが、

冒頭の「流星群」です。

 

青いグラデーション背景に

これでもか!というぐらい

輝く星々が散りばめられ。

そこに幾条もの流れ星ふが

平行に描かれた作品。

 

これ、欲しいです( ̄_ ̄;)

 

無遠慮にも僕は、思わず

落亀さんと奥さんに

本音で言ってしまった。

 

 

それから数ヶ月して、

奥様から額装された作品を

手渡された。

 

あそこまで

気に入っていただいて、

本人も

すごく喜んでました!

 


その日、僕はすぐに、

リビングに絵を飾った。

 

あれからずうっと、

落亀さんのこの絵は

我が家の一等地に

でででん!

と展示されています♡

 

 

 

【追加情報】

調べてみると、

17年ほど前に公開された

落亀章夫さんのサイトが

そのまま残されてました。

 

 

とても古いサイトなので

閲覧環境によっては

上手く表示されないかも

しれませんが、

落亀さんの作品の一部を

ご覧いただけます。

 

http://www.niji.jp/home/ochigame/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

35年ほど前のCATVは、

全国でもまだまだ

本格的な自主放送を

スタートさせている局は

少なかった。


僕がいた坂出のCATVは、

民放TV局の番組やCMの

製作をしている

事業部があったことから、

早い時期から

自主番組の制作に着手。


毎晩の情報番組をはじめ

対談、店舗紹介、広報、

カラオケ番組まで、

けっこ〜な本数を放送。


NHKをはじめ民放各局で

たびたび取り上げられ、

全国のCATVからの

視察もずいぶん多かった。

 


30年前のわたくし。

初詣多元生中継の一コマ。


とは言っても

しょせんCATV。


「お金がない」

「人が足りない」

「時間もない」


この3大縛りの中で、

いかに番組を作るか!?


身を削るような毎日の

繰り返しやったのです。

 

その最たるものが、

毎日夕方に放送してた

ニュース(みたいな)番組。

放送エリアである

坂出市内だけで、

30分を埋める素材を

探し出し、取材をし、

編集し、原稿を書く。

 

これを、2人とかで

やんないといけない。

 

こわー( ̄_ ̄;)

 

生放送ギリギリまで

編集して、原稿書いて…

となるのは日常茶飯事。


原稿が間に合わない!


ってのも普通にあった。


そうなるともう、

開き直るしかない。

 

現場でのメモを頼りに、

頭の中でリアルタイムに

原稿を考えながら、

画面に合わせて喋る…

という特技も覚えた。

 

しかも、生放送自体も

喋り担当の僕と、

ディレクターの2人だけ

というのがお決まり。

 

 

ある日のこと。

 

生放送が始まった。

 


30年前のサブスタジオ。

←奥がアナブース。


アナブースという部屋の

生放送カメラの前で

喋っている僕の左側に

小窓があって、

1人で送出を担当してる

塩崎さんの姿が見える。

 

□CM切り替えの操作

□映像の切り替え

□素材テープの準備

□テロップの操作

□BGMの送出

 

これを1人でこなす。

 

塩崎さんからの指示は、

耳のインカムに届く。

 

「次の話題に行って」

 

指示に従い、僕が喋る。

 

続いては可愛い話題!

今日、○○保育園で、

恒例の縄跳び大会が

元気に開催されました!

いったい子どもたちは

何回飛べたのか!

必見です!

 

VTRに振った僕の耳に、

塩崎さんの叫び声が…

 

「わ! テープが違う!」

 

そう言って塩崎さんは

どこかに走って行った。

 

( ̄_ ̄;)

 

何度も言うけど、

スタッフは2人だけ。

つまり僕は、たった1人、

生放送のカメラの前で

取り残されてしまった。

 

えーと( ̄_ ̄;)

 

どうあがいても

誰も助けてはくれない。

僕は喋り続けた。

 

出し惜しみしてますが

すごく可愛い映像です!

パパ、ママ、

おじいちゃん、

それにおばあちゃん、

ビデオの録画ボタンは

ちゃんと押しました?

VHSのビデオデッキは

録画と再生のボタンを

同時に押さないと

ダメですよ!

 

もう何の話をしてるのか

自分でもわからない。

 

ちょうどそこに、

塩崎さんが大慌てで

帰ってくるのが見えた。

 

「お待たせでした!」


「すぐにVに振って!」

 

よ、よかった( ̄_ ̄;)

 

再び満面の笑みになり、

僕は声を張って言った。

 

さあ、お待たせです!

〇〇保育園縄跳び大会、

いまここに

堂々と公開です!

 

またインカムから

塩崎さんの叫び声が

デジャブ的に聞こえた、

 

「わ!  これもちがう!!」

 

窓の外の塩崎さんが

また見えなくなった。

 

 




 

 

 

 

 

 

 坂出市立東部中学校は、

僕ら1964生まれ組が

晴れて入学した

1980年(昭和55年)に

新しい校舎が

ででん!と完成した。

 

 

今にもどががが〜!と

倒れそうだった

二階建て木造校舎から、

鉄筋コンクリート造りの

なかななに立派な

3階建て校舎になった。

 

視聴覚教室や

英語教育用のLL教室など

新しい設備も整ってて、

その新入学生1号が

僕ら学年やったのです。

 

それに合わせてか、

校則の一部も変わった。

 

□男子の坊主頭が廃止

僕も入学する前は

これに強く反発して

東中への進学すら

拒止してたぐらい。

 

□校内履きがスリッパ

それ以前は

体育館シューズ的な

上履きだったのが

スリッパに変更。

学年ごとに色分けされ

そりゃもぅ

派手ハデ〜( ̄v ̄ノ)ノ

 

それまでの東中は、

けっこ〜な頻度で

パトカーがやっくる

中学校やったけど、

その年からどんどん

収まってきて、

僕の弟の時代には、

悪い噂はほとんど

聞かなくなった。

 

そうなのよ( ̄v ̄ノ)ノ

 

僕と弟は新校舎組♪

 

ところが、

僕より3つ上の姉は

見事にハズれてた。

 

古い木造の校舎で

勉学に励みつつ、

運動場の向かい側に

どんどん建っていく

新校舎を眺めるだけ。

新しい校舎で授業を

一切受けることなく

卒業していく身...

 

 

いや〜可哀想に。

わは( ̄▽ ̄;)わはわは

 

 

ただし、一度だけ、

まだ未完工の新校舎に

入れてくれたそうだ。

 

新校舎に無縁の学年の

生徒たち(=姉たち)を

不憫に思ったのか、

音楽教室を使って

ホームルームをした。

 

その時、どうやった?

 

そりゃも〜感動した!

綺麗でびっくりした!

 

そら、まぁ、

よかったやん( ̄v ̄)

 

すると、

姉のテンションが

急降下した。

 

それがな…

壁とかの塗装が

完全に乾いてなかった

みたいでな、

溶剤臭が充満してて

何人かが急に

気分がわる〜になって

保健室に運ばれてな。

ホームルームも

すぐに中止になった。

 

それが姉の

東部中学校の新校舎の

唯一の思い出らしい。

 

 

いや〜可哀想に。

わは( ̄▽ ̄;)わはわは

 

 

 

 

 

 

 

  

坂出市民ホール前広場に

ででん!と銅像がある。




番正(ばんじょう)辰雄さん。

73年から89年に渡って

坂出市長を務められた方。


64年生まれの僕にとって

坂出市長』という存在を

初めて認識した方ですね。


辰雄ってお名前から


辰年生まれなんだろうな


とは思ってました。

僕の生まれた64年も辰年。

なので、僕の同級生には

『辰』『竜』『龍』の字が

名前に付く子が多かった。


調べると1916年生まれ。

ベルリン五輪の年ですね。

もちろん辰年でした。


そういう方だったので、

僕にとっては、ずっと、

「すごく遠い偉い存在」

そんなイメージ(だった)


実は京町の同級生の家の

お向かいさんが

番正市長のお宅だった。


ここが市長の家か( ̄o ̄ノ)ノ


小学生の僕は、

お宅の前を通るたびに

遠い存在である市長が

そこに住んでいることに

不思議な感覚を覚えた。



ところが、

坂出のCATVに入社して、

自主放送のニュース担当に

なってからは、

(当たり前の話なんだけど)

週に何度も、番正市長に

お会いすることになった。


なんか、フシギ(_;)…



1984年のこと。


番正市長の市政報告番組が

企画され、

対談相手に僕が選ばれた。


まだ20とか21歳の若造。

本番前、番正市長に対して

緊張していることを

素直に伝えたところ、

僕の年齢の話になった。


東京五輪の年の生まれです。

僕も辰年なんです。


おー! そうかー!


そこからひとしきり、

(その年はロス五輪開催年)

五輪のネタで盛り上がり、

そのままスムーズに

本番に入ることができた。


対談終了後、


お体にお気をつけください。


そうお伝えしたところ、

番正市長、ニヤリと笑って


次の辰年までは難しいけど、

次の五輪は見たいなぁ。



番正辰雄市長は4期務められ、

市長在任中の1989年に

惜しまれつつ亡くなられた。


その前年は1988年。

ソウル五輪が開催された。









僕が坂出のCATVにいた

30年ほど前に、

坂出市の松山地区で

天狗まつり

がスタートした。


一昨年のパンフレット。


 

白峰山の相模坊に伝わる

さがん坊天狗

(日本八大天狗の一つ)

にまつわるイベント。

 

10の具(テンぐ)を使った

天狗うどん

が振る舞われるなど、

なかなかに面白くて

賑やかなお祭りなのです。

 

 

その目玉行事の1つとして

天狗マラソン

も始まった。

 

松山地区を巡るコースで

市内外の人たちが

多数参加されていた。

 

そこで坂出のCATVでも、

その様子を収録して

放送することになった。

 

メインは移動車での撮影。

…とはいえ、農道を含め、

かなり狭い道も走らないと

いけない。

そこで撮影用の移動車には

ごくフツーの軽トラックを

使うことになった。

 

「振動に耐えられる男」

 

などという強引な理由で、

当時体重が90Kgあった

僕が担当に選ばれた。

 

坂出警察署からは

「全体に落ちないこと」

という条件がつけられ、

カメラマン(=僕)を

カメラを担いだ格好で

軽トラックの荷台に

縛り付けることに決定。

 

軽トラックの両側から

張った何本ものロープが

僕の体にぐるぐるぐると

巻き付けられた。

 

「じゃ、元気でな」

 

上司は笑いを必死で

我慢しながらそう言った。

 

マララソンがスタート!

 

移動車は先導車代わりに

大勢の応援で盛り上がる

松山地区を走り抜けた。

その荷台には、

ロープでがんじがらめの

なんとも惨めな格好の男が

先頭集団を撮影している。

 

そんなに速度も出ないから

沿道で応援している

地域の人たちの会声も

はっきりと聞こえてきた。

 

「あれ、後藤秀治やん」

 

毎日テレビに出ていた僕は

まあまあ顔も知られていた。

 

「後藤秀治が運ばれよる」

「わははは」

 

笑い声も聞こえてきた。

 

そのうち、子どもの声で

こう言われたのが聞こえた。

 

「出荷されよる豚みたい」

 

まあ、90Kgの巨体だから、

あながち間違いではない。

 

 

 

マラソン大会が終わって、

僕も無事にゴール地点へ。

 

と、軽トラックの荷台に

縛り付けられたままの

僕をめざとく見つけた

某民放テレビ局報道の

記者とカメラマンが

面白がって寄ってきた。

 

「わ、後藤さんじゃん」

 

知り合いのカメラマンが

笑いを我慢しながら

カメラを僕に向ける。

記者も笑いを我慢しつつ

インタビューしてきた。

 

「ぷっ…。どうでした?」

 

僕は、荷台カメラマンの

重要任務をやり遂げた

自負と尊厳に満ち満ちた

爽やかな顔で答えた。

 

「ぶひぶひ」

 

 

 

 

 

 

 

 

坂出高等学校の学生だった

40年前のお話し。





国鉄坂出駅を歩いてたら、

血相を変えた外国人男性に

ふいに話しかけられた。


I lost my wallet !

(サイフをなくした)

完全にパニック状態の

スーツ姿の中年白人男性。

何人にも声かけたものの

誰も話を聞いてくれずに

困り果てた感じだった。


What do you want ?


何をして欲しいのか、

とりあえず訊いてみた。


I want to go to

the police station.

(警察署に行きたい)


そりゃそーですわな。


今でこそJR坂出駅には

坂出警察署の交番が

駅舎の一画にあるけど、

当時の駅には無かった。


1番近かったのは、

元町栄筋商店街にある

元町派出所。

歩いて5分ぐらい。


Please follow me.

(ついてきてください)


動揺のあまり、何やら

ブツブツ言い続けている

外国人男性を

元町派出所に案内した。




一緒に中に入って、

若い警察官に事情を説明。


そうか。ありがとう。


すると、外国人男性、

僕に握手をしながら

早口でお礼を言ってから、

さらに超早口になって

落とした時の状況を

警察官に説明しだした。


なんか早口言葉みたいに

どわわわわ〜〜〜〜っと

も〜喋る喋る(- ̄ノ)


僕の英語力なんかでは

まるで付いていけない。


でも、若い警察官は、


ふん。ふんふん。ふん。


しれーっと聞いている。


この人、すごいなぁ。


そう思いつつ、

その場に僕がいたって

何の役にも立たんので

出て行くことにした。


すると、

席を立った僕に向かって

英会話が達者な警察官が

大真面目な顔で言った。


すまんけど、

さっきからこのひとが

なにを言いよるんか

通訳してくれんか。









 

もう25年くらい前のお話

 

知人の依頼で、

東京で飲食店チェーン数店を

展開する若い実業家を

香川県内のうどん屋さんに

案内して回ったことがある 

 

まぁよくあるパターンやけど、

自信に満ちた言動が印象的な

30代の二枚目だった。

 

同行していたのは、

部下だという40代の男性。

めちゃめちゃ腰の低い

実に真面目そ〜な方だった。

 

わざわざの来高の目的は、

全国で話題になりかけてた

讃岐うどんの店を

東京でも展開したい

と言うことなので、

香川県内、東から西まで

僕が『美味しい』と思う

5店舗を案内してまわった。

 

 

 

ところが

 

実業家氏、どこのお店でも

うどんはひと口食べるだけ。

店内の造作をチェックして、

トッピングをチェックして、

価格をチェックして、

それで終わり。

 

(_;)

 

天ぷらが安っぽいなぁ。

 

どこも同じメニューだ。

 

とにかく豪華さがゼロ。

 

 

も〜言いたい放題( ̄_ ̄;)

 

 

たまりかねて部下の男性が

 

うどんは美味しいですよ!

 

そうフォローすると、

 

くだらんことを言うな!

 

年上の部下に怒り出した。

 

 

しょせんうどんなんて

機械に作らせるんだ!

 

うどんは上に何を

載せさせるかだろう!

 

お前は客単200円で

商売をする気なのか!

 

 

結局、ずっとそんな感じ。

高松空港での去り際にも、

 

ほんと、讃岐うどん、

たいしたことないな。

 

そうしれっと言い放って

東京に帰って行った。

 

 

その後…

 

讃岐うどんの大ブームが

全国的にやってきたのは

皆さまご存知の通り。

 

 

男性の消息を聞いたのは

5年ほど経ってからだった。

 

事業に失敗して行方不明。

 

家族も会社も全部捨てた。

 

自信も捨てたのかどうかは

僕は知らない。

 

 

今となっては

懐かしい思い出なのよね。

 

 

実は僕、こう言う人物って

嫌いじゃない(v ̄ノ)

 

人としてすごく面白いし、

正直な人なんだと思う。

 

ホンネを言うと

また会いたいのよねー

 

あれから見つけた

美味しいうどん屋さんに

また連れて回って、

今度こそ

 

 

うどんって美味しいねー

 

 

そう言わせたい(v ̄ノ)

 

 

 

 

 

 

 

尊敬する郷土の偉人。

 

世界的な芸術家である

濱野年宏さんは、

やっぱり外せないですよね。

 

実績、肩書きどれを見ても

『別世界の人だ(_;)

と驚かされる。

 

 

 

ところが、

 

今から40年ほど前の

香川県立坂出高等学校で、

濱野年宏さんは

美術の教鞭をとられてた。

 

びっくりでしょ()

 

 

濱野先生の授業は独特で、

課題を与えたあとは、

もっぱら生徒の自由時間。

すべてが自己責任で

作品に向かわされた。

 

自分で描きたいものを

自分で描きたいように

自分の描き方で描く。

 

そういった基本の基本を

教えていただいたと思う。

 

 

ある時、画用紙が配られ

先生が課題を出された。

 

自由に描きなさい。

画材はポスターカラー、

テーマは『愛』です。

ではどうぞ。

 

準備室に去っていかれた。

 

ふむ(_#)ふむ

 

絵の具が不得手だった僕。

先生の課題を無視して、

鉛筆の緻密なタッチで

金属的な質感のマークを

画用紙いっぱいに描いた。

 

ふと見上げたら、

濱野先生が覗き込んでた。

 

鉛筆で描いたの?

 

ほい。

そんな気分だったので。

 

そう。いいね。

君、美術部に入らない?

 

そう誘っていただいた。

 

ぜひ入りなさい。

 

まぁ、僕はすでに

放送部に入ってたから、

美術部に入るのは

無理だったんだけど

 

先生が去ってから、

することがなかった僕は

別の画用紙に

イラストを描き出した。

 

『愛』の字を擬人化して

ベッドに妖艶に寝転がる

なかなかに色っぽい姿

 

題名【愛人】

 

そう書きこんだところで、

また濱野先生が

上から覗き込んでるのに

気がついた。

 

へえ、漫画も描くんだ。

 

あ、いえ、その

 

そうなんだ。そうなんだ。

 

 

それから、濱野先生に

美術部に誘われることは

二度となかった。

 

 

ひょっとしてあの瞬間、

実は僕の人生、

変わっちゃったのかも。



( ̄_ ̄;)