アメリカから香港に帰ってきたブルース・リーは30歳で、13年ぶりに親友で俳優のユニコーンチャンに頼んで、「香港で今、一番ヒットしたアクション映画を見せてくれ!」と聴いて「吠えろドラゴン立てジャガー」を見たらしい。
 
そして、その作品の製作会社であり、香港最大の海外配給網を誇る映画会社、ショーブラザーズの門を叩いた。
 
ところが社長のランランショーには会えず、代わりにプロデューサーのモナフォン(後のランランショーの妻)がブルース・リーに会った。
 
ブルース・リーはそこで、自信満々でジークンドーの演武を見せたらしい。ところが、ブルース・リーの要望は「アメリカドルで1本一万ドルを要求」した。
 
これに対してモナフォンは「うちのトップスターのジミーウォングでも1本五千香港ドルなのに、いくらなんでもアメリカでテレビシリーズのグリーンホーネットに出ただけのキャリアのあなたに一万USドルは出せない。無理です。」と断られてしまう。
 
 
いくら、グリーンホーネットが香港で「カトーショー」と言われて多少の人気があっても、まだ、アクション映画は主演作は1本もない当時のブルース・リーにモナフォンは賭ける気持ちにはなれなかったようで、この時はさすがに自信家のブルース・リーもかなり落ち込んだらしい。また、この時のブルース・リーは経済的にも苦しく、帰りの車代もなく、バスで帰っていったという。
 
この後にレイモンドチョウがブルース・リーを探して対面し、要望のギャラの金額を受け入れ、契約成立。ところが、レイモンドチョウには、ブルース・リーに払うだけの金がなく、人に借り入れして用意したという。
 
そんな中で、なんとか撮影に漕ぎ着いたタイトルが、ブルース・リー香港凱旋第1作品目
 
「ドラゴン危機一発」だったらしい。
 
 
そしてこれが革命の始まりとなる。
 
 
その2年後、燃えよドラゴンクランクアップしたブルース・リーはランランショーと会い、未来の話をする。
 
 
そして7月20日。突然の死去。亡くなる直前の日記には、9月には死亡遊戯再開。10月からはショーブラザーズで映画を撮る。と書かれてあったそうです。
 
 
 
              しようこ