土曜日の午後久しぶりに天気が良かったので、サウスケンジントンにあるヴィクトリア&アルバートミュージアムで開催中の『Tropical Modernism: Architecture and Independence』展に行った。チャンディガール都市計画を含むインド独立後の建築とガーナでのAAスクール(ロンドンの建築学校)が携わった建築教育を中心に展開している。

 

 丁度先週の講義でル・コルビュジェによるインドでの都市計画チャンディガールについて説明したばかり。Tropical Modenismと言えば、熱帯地方の建築手法のバイブルとして知られる『Tropical Architecture in the Dry and Humid Zones』を執筆したジェーン・ドリューとマックスウェル・フライ夫妻もコルビュジェと並んでこの展覧会の主役と言って良い。展覧会ではあの頃の歴史や政治背景について、写真や様々な展示物を使って紹介しており、詳細までは知らなかったので大いに参考になった。

 

 チャンディガールを白紙状態(タブラ・ラサ)から建設することになった理由は1947年インド独立時にイスラム系のパキスタンも分離独立した結果、元々パンジャブ州の州都がパキスタン側に入ってしまったため。当時の首相ネルーが新州都建設を計画したのが始まり。しかも、当初のマスタープランはアルバート・メイヤーとマシュー・ノーウィックが担当していたのに、ノーウィックがインドからの航空機事故で死亡、メイヤーはショックで継続不可能になり、アドバイザーとして参加していたコルビュジェが「ペンを取って新しいマスタープランを描き始めた」という。この機会が訪れるまでに彼は五都市のプロポーザルがボツになっていたので、絶対に逃したくなかっただろう。フランスでは悪名高いヴィッシー政権にも近づいてプロポーザルを提出していたと聞く。

 

 この展覧会で気付いたのは、インドのこの新都市計画は当然のことながら政治的で植民地主義が色濃く反映していること。海外に留学していたインド出身の建築家を呼び寄せたりもしたらしいが、結局彼らの教育は宗主国イギリスで受けたもの。これはガーナでも同じ。ドリューとフライは熱帯建築の専門家としてネルーが呼び寄せたらしい。しかも、インド独立の際はパキスタンから逃れた難民が押し寄せ、多数の死者が出たが、州都建設はその難民に職を与えることとなる。つまり、チャンディガールは後に住民になる人々が自分たちの労力、人海戦術で作り上げた街ということ。これは孫や子の代まで語り継がれる歴史で、住民の愛着が増す訳だ。今ではチャンディガールはインドで「最も高い生活水準および収入水準を誇りとしている」とか (ウィキペディアより)。最も緑化された都市とも呼ばれている。

 

 とは言え、展覧会は「インドと西アフリカ特にガーナ」と思ったより対象国が少なくて残念。てっきり植民地時代の名残もあるし、暑いので中東も含まれると期待していたのに。実は中東の建築についてエッセイを書く学生に「参考になるから展覧会行ってみたら?」と勧めてしまった...「中東入ってないじゃん!」と後で怒られるかもしれない...展覧会は2024年9月22日まで。

 

ガーナの展示についてはこのドキュメンタリーが参考になる