日本からの帰国でヒースロー空港から地下鉄に乗っている間、村田沙耶香の芥川賞受賞作『コンビニ人間』を読んだ。中編で読みやすいので1時間の乗車時間プラス帰宅後1時間以内で読み終わってしまった。記載はないけれど発達障害らしき主人公は古倉恵子36歳。大学時代から18年コンビニエンスストアにバイトとして勤めている。

 

  この小説に興味を持ったのは、ロンドンの2階バスで正面に座っていた若い英国人らしき女性が熱心に読んでいたから。恐らく先が気になって止められなかったのだろう。よりによって日本人作家が書いた小説を目の前の人読んでいるとは…縁がある!とちょっと嬉しくなって帰国したら日本語版を読もうと決めた。

 

  それ以来、村田沙耶香のインタビューを見かけると気になって読んできた。彼女自身も純文学作家では生活できなくてコンビニで今でも時々働いているので、実体験に基づいた小説だという。現場で体験した違和感を澱のように濃縮して、古倉恵子という人物を通して表現しているらしい。

 

  この小説が読者に問いかける「普通って何?」は世界各国共通に存在するようで、前に TVドラマで観たアイルランドの小説ふつうの人々/ Normal People』が読者に突きつける問いと同じだ。ただし、両者の主人公はある意味正反対とも言っていい。『普通の人々』の主人公マリアンヌは頭が良く若く美しくお金持ちで、あらゆる面で際立ち過ぎて高校時代は浮いていたが、秘密裏に人気者コーネルと肉体関係にあったという、一見「リア充」。でも、家庭内で虐待されてきたことが体に染み付いていて、学校での苛めや付き合う男性との人間関係に反映されてしまう。アイルランドの小都市という息が詰まりそうな場所も日本の「世間」に近い圧力を醸し出す。

 

  一方、『コンビニ人間』の惠子も学校では一人ぼっちだったけれど、周囲の人に合わせて真似をする事で存在を馴染ませ目立たせない手法を身に付けた、マニュアル人間。でも、欲望や自分というものが無く、中身は空っぽだ。だから惠子は「結婚して子供を産むべき」という家族の期待や世間の圧力に屈して、一度は元同僚の白羽というヒモ男を自宅に飼う。でも、この事をきっかけに惠子は自分が求める真の姿に目覚める。比喩的に言えば「コンビニと同化して彼女自身がまるでそのガラスのように透明な存在になる」という結末は見事で爽快感さえある。言葉としては出てこないけれど、惠子なりの「幸せ」が垣間見れる。

 

  白羽によれば「世間的には底辺と見なされるコンビニバイト」だけれど、惠子にとってそんな偏見は関係ない。でも、仕事って、あるいは天職って本来そういうものじゃないのか?収入によってその人の価値が決まるかのような幻想はいつどこで私たちの脳裏に植え付けられたのか?

 

  『コンビニ人間』は暗黙のうちに閉じ込められて気付かない社会のフレームワークを顕にする、底力のある小説だと思う。