教科書には絶対に載らない本当にあった話です | 琉球戦士!仲泊兼也40代からの肉体改造計画!blog

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40才を超えても理想の体に近づけられるのか!
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日々の出来事や気付き、トレーニングで勉強になったこと等を書いて,子供と一緒に成長して行けるように頑張りマッスル

おはようございます

今日はですね

前回に続き、教科書に載ってない近代歴史の真実でございます

私たちの隣国には、こんな国だらけだという事を、知って警戒心をMAXに高めないといけないと思う
実際ロシアは今「北海道も我々の領土だ」と主張し始めている

もうね
アイヌの問題とかマジでどうにかならんもんかね


はい


では↓↓
「学校では絶対に教えない史実のご紹介」
それは、終戦直後に満州で起きた中ではもっとも最悪な悲劇と言われる
葛根廟事件
(かっこんびょう)
葛根廟とは、満州国興安総省にあった地名
※現・中華人民共和国内モンゴル自治区興安(ヒンガン)盟ホルチン右翼前旗葛根廟鎮
昭和20年8月9日、早朝からソ連軍が国境を越えて満州国に侵攻
10日、11日に興安がソ連軍の空爆を受け、 ほぼ破壊されると東半分にいた日本人の千数百人がウランハタに集結

興安総省參事官、浅野良三の指揮で、南東にある良林省、白城に移動
そこで、関東軍の保護を受けつつ列車で南下することを計画し徒歩で避難を開始した

ところが 8月14日昼前、 葛根廟丘陵付近で、中型戦車14台、トラック20台のソ連軍歩兵部隊に遭遇してしまいます
それは、偶然ではなく前日に興安入りしたソ連軍興安入りしたソ連軍が彼らの逃避行を知り先回りして待ち伏せていた故意の攻撃でした。
不意打ちを受けた浅野良三は白旗を上げて降伏したものの、機関銃で射殺。 と同時にソ連軍は避難民に対して攻撃を開始した
戦車が機関銃を乱射しながら日本人を戦車で轢き殺したのです。戦車の後ろではキャタピラに巻き込まれた死体が宙に舞い上がったという
まさにに地獄絵図
東京・目黒区 五百羅漢寺にある葛根廟事件の絵↓↓



そしてトラックから降りてきたソ連兵が生存者を見つけて片っ端から射殺、銃剣でトドメを刺した。

2時間ほどの攻撃で非武装の一般市民の日本人の女性と子供が1,000名以上殺された

亡くなった方の中には、戦車に轢かれたり被弾して負傷した末に自決した人も多くいた
更に生き残った者も、支那人によって下着まで剥がされ女性は鎌で乳房を切り落とされた。
そして支那人は母親を殴って子供から引き離し連れ去った
(当時日本人の男の子は300円、女のコは500円で売られた)
そして売られた子供たちが後の残留孤児となった。
無抵抗の一般人に対して一方的な惨殺、虐殺、強奪は、明らかに戦争犯罪である
ソ連(ロシア)には、この事件を「捏造だ」と主張する学者もいるようだが、 この事件に遭遇しながらも幸運にも生き延びた方の証言がある以上、そんな主張は通用しない。
その生き延びた方が出版されたのが↓↓↓
 『炎 昼 私説 葛根廟事件』 (大櫛戊辰
同書から、生存者の証言をひとつ、以下にご紹介します。
証言者は、当時8歳だった依田照子さん。
母と5歳の弟、3歳と1歳の妹2人はこの事件で殺され
自身は残留孤児となり1976年に帰国。
父は戦後シベリアに連れて行かれ、後に帰国したものの父、娘は離れ離れのまま会えず過酷な人生を歩んだのです。
↓↓↓
「私はむちゅうで走り、こうりゃん畑の中に伏せていました。そこにどこかのお姉さんが1人いました。
私は、母さんや妹たちがどこへ行ったのか心ぱいで行こうとしたら、そのお姉さんが「危ないから、じっとしていなさい」ととめました。
戦車がいなくなって、畑のそとに何回も出ていって、「お母さーん!」そして妹たちの名前を呼びましたがなんのへんじもなく、死んだ人たちのくさいにおいがこわくなり、泣きながら畑もどりました。
私のランドセルをまくらにしてお姉さんが、ねていたので、おこそうとランドセルを引くと、「ガクンッ!」とお姉さんのあたまがおちて、赤いどろどろしたのが流れてきました。
お姉さんがいつうたれたのかしりませんでしたが、あまりかなしくもありませんでした。
「お姉さんごめんね。」といってランドセルをとってシャツをきがえ、本といっしょにすてました。
「あーあー、とうとう一人ぼっちになった。」走ってきたのはこっちかしら?あっちかしら?」
わからないままあるきましたが、にげると、きつくなるし、はだしの足がいたくてなりませんでした・・・。」
8歳の少女にとっては、あまりにも悲惨な体験だったと言わざるを得ません。

まさにこの世の地獄・・・この他、不憫に思って我が子を殺し、自らも乳房を切り取られながら生き残った女性のものなど、涙なくしては読めない証言ばかり。

‘‘迫りくる ソ連戦車の キャタピラに 厳となりて  我が児抱く母 ‘‘

幸運にも生き延びた遭難者が詠んだこの短歌が、この事件の悲惨さを端的に表していると思う。

今の若い人たちや私たちの子供たちにも伝えていかなければならない

歴史を知らぬ民族は、進む道を誤りますから・・

私たちは、(現在我が国固有の領土を実効支配したり脅かしている) ロシアや特亜各国が引き起こした残虐行為を歴史上から抹殺させることなく、後世に語り継がなくてはなりません



はい
いかがでしたでしょうか!

前の blogでも書いたような
真実を隠蔽し
自分たちの作った主張だけを世界各地で何十年も言い続け
「日本がわるい、日本は悪だ、永遠に謝罪し、永遠に賠償金を払え!」
言われ続ける今の現状を許せますか?

日本政府も世界各地で真実を強く語り

間違った歴史はスルーせず
一つ一つ証拠を元に言い続けるべきだ

私達もどんどん真実を隠さず
世界各地に拡散すべきだと思う。



はい

ではでは(^o^)


今日も blogに
お越しくださいまして
ありがとうございますね
m(_ _)mにふぇやいびん