スライダーマンのコーヒーブレイク -3ページ目

スライダーマンのコーヒーブレイク

今まで「有りそうで、無かった物が、無くてはならない物に」を
スローガンとして、物づくりに挑戦していきます。

   私には韓国済州市に30年来私より日本の事をよく知っている親日の友人がいる⋯

彼がこの私のブログを読んで悲しくなるかもしれないが、あえてペンをとりました。

   慰安婦の事で、韓国の人々は日本に対して誠意が無いとか、政府としてお詫びが無いとか、どうたら⋯こ⋯たら頻繁にデモを繰り返し、慰安婦像をあちら、こちらに建て廻っている。

   私はこの事を、韓国目線では無く、違った目線で見て見たい⋯

もし、私の母がかつて旧日本軍の従軍慰安婦だったと聞かされたら⋯

私には大ショックで⋯その事はお父さんが知っているのと聞くと思う⋯

又、「お母さん⋯その昔の事親類の人達は知っているの?」とも聞くだろう。

   母のその当時の慰安婦としての事など聞きたく無い⋯そして、もし私の母が終戦直後何処の街にも存在した「パンパン」として体を売っていた場合と同じ事の様に思う⋯

「お母さん〜その事は誰にも言っていないよね?」

   もし、恋人や、友人、職場の人々に「彼の母は、元慰安婦だったらしいよ⋯」と思われるのも私としては、凄い引け目を感じ、子や孫に知られたく無い事である。

   今でこそ、電車内や、道端で強姦されたと訴える女性が現れて来たが、かつてはその辱めを封印して来た。痴漢はともかくレイプされた場合、これが多くの人に知られたら「嫁に行けないとか⋯傷者にされたとか」と警察に被害届けを出さない⋯と言うか、警察でそのレイプされた事を又言う事がどれだけ恥ずかしく、屈辱的な事か男の私にだって良く分かる。

     続く⋯

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   「あんたら! 来るの遅いわ!⋯」とおばちゃんに怒られたが、その後校長が来て我々がボランテァで浴場を作りに来ている事が理解でき、のちに炊き出しの豚汁を差し入れに来て謝りに来た。

   昼食後4.5畳の仮設浴場の棟上げ⋯そして浴槽の搬入⋯給排水工事、石油給湯機の据付、200ℓのポリタンク二基の据付、陽水ポンプも据付し後は水を入れて試運転と工事が完成⋯しかしその水が無い⋯当然震災により断水しているから当然であり途方にくれていると、給水車を個人で所有しているボランテァの方が、私に任してと水の確保ができて試運転する事が出来ました。

   この仮設浴場に「紀の川温泉」と命名し体育館に避難されている方にひと時の安らぎを与えられればと、又さくら咲く頃撤去出来ればと精道中学校を後にした⋯

   震災から21年⋯私達の行なった事は一度もマスコミ等々で報道される事なく、当時の記憶が消えていき、ひと時の安らぎも消え去ってしまった⋯

 

 

 

    阪神大震災が発生した時、水道の復旧応援にと私の町の水道組合が微力ながら貢献致しました。その後私も何とか貢献したいと、自衛隊が精道小学校に仮設浴場を作った⋯ならば、当社は精道中学校の避難場所である体育館に仮設浴場を作りに行くと精道中学校の村上校長に電話した⋯校長の返事は是非来て欲しいと良い返事を頂いた。

   それから当社の社員及び協力業者と実施計画を立て、一泊二日の日程で実行する事になった。震災が起きた日は平成7年1月17日、当社の実施日は2月3日〜4日総員11名で2月3日午後9時和歌山を出発した。

  精道中学校に2月4日午前1時頃到着、近隣の公園に車両を駐車し、夜食分と朝飯の二食のおにぎりでみんなで夜食を食べて明日に備えた。隣にはスイスからの救援隊のテントもあった。睡眠は車泊し朝を迎えた。

   朝、精道中学校の校庭に入り、資材を降ろしていると、避難しているのおばさんから

凄い言葉が「あんたら!もっと何故早く来ないの!」とお怒りの言葉…

   校長が慌てて飛んで来て「この人たちはボランテァで和歌山から仮設のお風呂作りに来てくれたんだよ」と誤解を解いてくれた⋯

 

続く⋯