アマヤドリ「人形の家」激論版 2024.03.20(ソワレ)


大塚由祈子さんは今回の激論版では二役プラスアルファを演じていらっしゃるが、役柄を説明するにあたり、仮に、境界という語を設定する。
その語に従って述べるなら、大塚さんが演じておられるのは、境界に位置する役、境界の向こう側を見たかもしれないそして戻って来たかもしれない役、自在に境界を設定する役、である。
それぞれの役柄、そして、役柄が複数であることが、重層的に作用し、彼女をこの芝居の影の主役としている、「影」は、上記の三番目の役柄とも、深く関連する。

さて、主役の徳倉マドカさんである。
激論版を見ること二回目にして、まずは登場時、コートを身にまとった彼女が「寒さ」を表現していることに感嘆するのだけれど、ここでの最大の驚きは、徳倉さんが、ノーラを、終幕の、言うなれば開眼する様子を予感すらしていない者、として演じていることである。
劇中の登場人物がすでにラストを予感しているとして演じたなら、すなわち「匂わせ」を行ってしまったなら、この芝居は台無しになってしまったことだろう。
二回見てやっとわかったというのは、その演技が「匂わせ」でないことの間接的な証左ともなろう、「匂わせ」であったなら、一回目からわかってしまったはずだからだ。
そして、この場面での倉田大輔さんの、あくまで境界のこちら側を生きるものとして夫を演じ切った演技あってこそ、匂わせをさせないことは、可能になったのだろう。

倉田さん、そして、宮崎雄真さん、中村早香さん、西本泰輔さんといった凄腕の役者陣の演じている役柄について、注意を喚起しておくと、彼ら四人は、境界のこちら側に生きるひとをひたすらに演じているのであるが、それぞれの役を「俗物」としては演じていないのである、つまり、終幕のノーラの視点をあらかじめ導入することを排して演じているのだ。

今回の役柄たちを演じるにあたっての彼らの姿勢は禁欲的とさえ言えるだろう。もし四人が、「俗物」を演じてしまったなら、さきに記した「匂わせ」と同様に、この芝居は芝居たり得なかっただろう。
彼らに「俗物」を演じさせなかったのは観客の力でもある。アマヤドリは良質な観客を得たことを誇るべきだろう。

徳倉マドカさんのお話に戻る。彼女の演技を古の名優を引き合いに出して云々する者が居たとしよう。しかしそういった者は、自身がかつて芝居の観客であったことがある、と、明かしているだけなのだ。いま目の前で演じられている芝居に対して、かつて観客であったとの告白は、無力である。芝居と呼ぼうが演劇と呼ぼうが、同じことだ。
観客としては、若さをとがめる簡単なお仕事に従事している場合ではない。徳倉マドカを名乗る或る方が今回の上演まで女優を続けてくださったこと、そのことへの感謝を捧げる、観客に求められているのはそれだけだ。

終盤、徳倉さんと倉田さんの、クライマックスのやり取りに於いて、照明が背後の舞台装置の影を強調するところが二か所あったように思う。
クリスマス、装置の角材というか棒状の部分の影、ということから、「戦場のメリークリスマス」の原作「A BAR OF SHADOW」を思いついたのは、照明を担当された方と装置を担当された方からすれば、やっと気づいたのか、というところかもしれない。原題を「影差す牢格子」と訳すなら、ここにも「影」が登場する。
物語が大塚由祈子さんのダンスで閉じられるのは、最初に述べた役柄の反映なのだろう、すなわち、大塚さんの役がこの芝居の影の主役であることの、あるいは、影こそがこの芝居の主役であることの。

以上が当夜のパフォーマンスを見ての感想である。ありがとうアマヤドリ。