この映画「くぴぽ SOS!びよーーーーんど 」は、封切り間もない今にこそ、多くの観客に見られなければならない映画であると考える。「見られなければならない」であって「見られるべき」ではない。この件に関する考察は文末に記す。

「くぴぽ SOS!びよーーーーんど 」は、創設後10年の間に十人以上の異動をみ、映画中でもまきちゃんさん以外のメンバーが総入れ替えとなる自称「大阪で一番売れてないアイドル」すなわち「くぴぽ」のドキュメンタリー映画である。しかしながら、「くぴぽ」と対になるグループ「少女模型​(しょうじょまねきん)」無しではこのドキュメンタリーは成立しなかっただろう。
有為転変(ローリングストーン?)を絵に描いたような「くぴぽ」とは対照的に、人数が少ないことが味方したとしても、ともかくも不動のメンバーを誇る「少女模型​(しょうじょまねきん)」、しかし映画の終盤「少女模型​(しょうじょまねきん)」はついにメンバーの卒業を迎える。
永遠不滅なものは、やはり、無かったのだ、しかし、「くぴぽ」のまきちゃんさんは不動である。メンバーの定まらぬ「くぴぽ」との対比があまりにも鮮やかであるがゆえに、上映中は、まるでこの映画の主役であるかのように、「くぴぽ」を喰ってしまっているかのようにさえ思える「少女模型​(しょうじょまねきん)」、しかしその「少女模型​(しょうじょまねきん)」が永遠では無かったことがすなわち「くぴぽ」のまきちゃんの不撓不屈ぶりを際立たせる。
一見不安定な「くぴぽ」の不動性を強調するためにこそ、もう一本の柱として機能するためにこそ、「少女模型​(しょうじょまねきん)」はこの映画に起用されなければならなかった、そしてまた、ラストに至り、みずからが不変でないことを示さなければならなかったのだ。
つまりこの映画は、鑑賞中の印象ではほとんど「少女模型​(しょうじょまねきん)」の映画のようにさえ思えるけれど、やはり「くぴぽ」主役の映画なのである。

なお、グループと古い知り合いであるとの理由から呼ばれたには違いないが、観客からすると、リアル環境の激変ぶりから「いじられ役」として上映後のトークに呼ばれたのかとさえ思われたのが、「日替わり定食二人前」そして「アポカリナノ!」のメンバーと自ら名乗った、ゑりかちゃんべいびーである。
映画ラストにまきちゃんさん自身が「保険」との言葉を用いて不動を祈りさえした、現「くぴぽ」を構成するメンバーたち。しかし、ゑりかちゃんべいびーは、まきちゃんさんに向かって「いつまで続けるの」との質問を放つことにより、まきちゃんさんが魂の叫びとさえ思える言葉を吐いたにもかかわらずけっきょく物事すべてはどうしようもなく揺れ動いてゆくものだ、と、冷静あるいは冷徹に提示することにより、呼ばれた責任を見事に果たしていた。
ゑりかちゃんべいびーの問いに対するまきちゃんさんの答えを待つメンバーの横顔のこわばり、横顔に走った明らかな緊張は、今日のトークいちばんの見ものであった。
現場の雰囲気あるいは進行状況によっては「最近いろいろあったアイドルその一」として晒し者になったかもしれなかったトークに、晒されてしまうかもしれないことを承知のうえで、そうなるかもしれないことを覚悟のうえでオファーに応じたのであろう、ゑりかちゃんべいびーさんの勇気を讃えたい。
ゑりかちゃんべいびー、偉い。
ゑりかちゃんべいびー、偉い。
ゑりかちゃんべいびー、偉い。
大切なことなので三回書きました。
そもそも「くぴぽ」さん側には上記したような思惑は無かったであろう、けれどもなにが起きるかわからないのがライブアイドルの現場というものだ。

開幕間もなく「NaNoMoRaL」が登場する。共演者として接点があるからこそ登場するのだと一応の説明はつくが、大阪のアイドルを扱う映画に、東京の、要は、ほぼ全く界隈の重ならないライブアイドル「NaNoMoRaL」が登場する理由としては不充分である。
登場の唐突なることもさることながら、「NaNoMoRaL」に与えられた尺は映画中に登場する他のアイドルに比べ不思議なほど長めに思われる。そして何よりも、全編を通しての鑑賞ののちに感じ取られるべき「続けること」の重要さが、「NaNoMoRaL」のメンバーである雨宮未來そして梶原パセリちゃん、映画中では主に梶原パセリちゃんによって、映画の進行している時間に於いては奇妙に思われるほど、あまりにも早く語られることに対してもいささかならず違和感がある、そもそも界隈違いのグループをなんでまたわざわざ登場させ語らせるのか、と、現場では思った、というところで、現場=映画館を離れて一晩置いてのちの考察を以下に記しておく。
「NaNoMoRaL」の梶原パセリちゃんは男性のスカート着用を実践していらっしゃる方であり、いっぽう「くぴぽ」のまきちゃんさんは女性アイドル風の衣装を身にまとってステージを務める方である。両者の見かけ上の接点は、身体的男性としては常ならぬナリをしてステージに生きていることであるが、しかし二人にとって、ナリそのものが自己主張し過ぎるのは本意ではないのであろう、すなわち、必要と感じるから装っているだけの異装の二人の、性を越えた……ここは「(?)」あるいは「(!?)」とするか、それとも「(笑)」とするか、悩むところですな(笑)←……共感がどこにあるかを語るためこそ、上記したごとくほぼ完全に界隈違いであるにも関わらず「NaNoMoRaL」の登場が欠かせなかったのだ。
二つのグループの共通点、接点、そしてまきちゃんさん梶原パセリちゃん二人の共感する要点は、異装そのものには無いのだ。異装は単なる衣装なのであり、二人にとって肝要なのはお互いのナリ自体ではなくて、ナリそのものの自己主張はさておくとして、否、それはさておき、梶原パセリちゃんその人によってあまりにも明確に語られる「長く続ける」ことである、と、筆者は読んだ。
ここではこれ以上書くことはしないでおく、と言うと、この文章をいま読んでくださっている方は、「NaNoMoRaL」についての考察と言いながら不十分ではないか、と感じられるだろうが、映画を見てこの文章を読んだ者として自身で考えて頂きたいとの思いが筆者にあるからこそ、あえて詳述を避けるのである、と、ご理解くだされば幸いである。すなわち映画中の「NaNoMoRaL」に関する記述は以上をもって終わる。

筆を擱くにあたり、最初に記した件について述べておく。
この映画を見て気づいたのは、映画の重大なモチーフである、新型コロナをめぐるあれこれに対し、見ている自分が懐かしさを感じていることであった。すなわち、新型コロナウイルス体験は、リアルタイムに体験した者に於いてさえも、はやくも風化し始めているのである。
映画中の、新型コロナウイルス感染をめぐる、ライブアイドル界隈に緊張の走る様子そしてその緊張がしだいに緩んでいく様子は、すでにあの時間を共有したものたちだけのものになってしまいつつある。つまり、映画に描かれた界隈の焦燥の背景は、あまりにも早く、わからなくなりつつあるのだ。
この映画は、封切り間もない今の時点においてこそ、多くの人に見られなければならない、それは、この映画の背景である新型コロナウイルス体験を風化させないためにである。それはすなわち、この映画を「わけのわからないもの」にしないためである。
この映画を「生きた映画」として保つためにこそ、新型コロナウイルスを体験した者たち、すなわち、この映画に描かれたもろもろがいかに当時の状況に動かされたかを映画を通じて再体験し語り継ぐ者たちを、出来るだけ多く作り出しておかなくてはならない、語り継ぐ者の居場所が広い範囲に散らばり、そして、語り手そのものが多くあればあるほど、出来事は正確に語り継がれ得るからである。
われわれは、新型コロナウイルス体験を、それにまつわることどもを、まだまだ忘れてはならないのだ。

 

しかし新型コロナウイルスはあくまでも映画のモチーフのひとつに過ぎない。
この映画のテーマは「忘れてはならないものは、忘れてはならない」なのだ。それは同語反復ではないかとの批判には以下のように言い換えることで対処しよう、「忘れてはならないものがある」と。